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福沢文明塾 コア・プログラム講義録

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第14期 コア・プログラム
ベーシック・リーディング
「福澤諭吉の酒造業へのまなざし」

講師:井奥成彦
(慶應義塾大学文学部教授)
ライター:永井 祐子
セッション開催日:2015年11月7日

 

福澤諭吉に関する文献を題材に、福澤研究の専門家からその教えを学ぶベーシック・リーディング。今回は近世・近代の経済史を専門とする井奥さんを講師に迎え、福澤が当時の日本の酒造業をどう捉えていたかがうかがえる史料を読み解く。そこには福澤の思想がどのように反映されているのだろうか。
当時の工業生産物トップだった酒造業
日本では古くから、日本酒をはじめ醤油、味噌、みりん、酢などの醸造業が発達してきた。醸造業とは微生物の力を用いて飲料や食料を作る産業のことである。日本の温暖湿潤な気候が醸造に適していたことに加え、細やかで繊細な日本人の特性が活かされたものともいえる。なぜなら、微生物は下手をすると死滅の恐れがあるなど、その扱いには非常にきめ細かい注意を払う必要があるからだ。酒造りにおいては、杜氏と呼ばれる技術者が自らの経験を活かしながら端正こめて作り上げてきた歴史があり、これは今日でも完全に自動化することはむずかしいとされている。
では、福澤の時代の醸造業はどのような状況であったのか。明治7年に発表された「府県物産表」という日本初のマクロ統計によると、当時の第二次産業の生産物、すなわち工業製品のうち、その生産額が一番多かったのは酒であった。続いて2位には綿織物、3位は醤油、4位が生糸、5位に味噌、8位が絹織物という順位になっている。この時代の産業というと、輸出品として外貨の稼ぎ頭だった生糸や、いち早く機械化した紡績業が注目されることが多い。しかし、数字的には繊維産業よりも醸造業の方が生産高は高かったのであり、この時代の工業の中心は醸造業であったと考えてよいだろう。
経験だけでなく、学問的思考を取り入れよ
このように日本の伝統産業である醸造業の中でも最も生産額の高かった酒造業について、福澤が初めてまとまった形で論じていると思われる記述が、明治14年に出版された『時事小言』の中にある。「殖産興業」というスローガンに基づき日本の産業を振興していこうという流れの中で注意すべきことのひとつとして、「殖産ノ実際ト学問ノ規則ト相互ニ密着セシムル事」、すなわち、実際の産業と理論的な側面としての学問を相互に関連させながらやっていかなくてはいけないと主張している部分である。「農工商ハ無学無識、学者ハ実際ノ事ニ疎」すなわち、実際に産業をやる側は学問的に劣り、学者は理論的には優れていても実際のことには疎いものである。この両者が互いに感化しあって、実際と理論をうまく整合していくべきであると述べている。この辺は今でいう産学協同という考え方にもつながってくるのかもしれない。
この記事ではその具体的な事例として、尾張知多郡の酒造家であった盛田久左衛門が天保9年(1838年)に行った酒造改革の例を挙げている。仕込みに使う水の量を増やすことで酒の量そのものを増産しただけでなく、結果的に、甘くどろっとした従来の酒に比べるとより洗練された酒が造れるようになったというものだ。福澤によると、全国的にこの新しい方法を用いて生産すれば、従来の方法に比べて3400万円も生産量を増やすことが可能だという。この金額は、当時の国家予算の半額よりも大きい。これに対して福澤は以下のように述べている。
「此法式ノ改革ヲ以テ国益ヲ為シタルノ事実ハ誠ニ明白ナレドモ其改革ヲ施ス際ニ一句ノ論理モ用ヒズ、一条ノ原則ヲシラズ」
「学問ノ主義ヲ活用シテ……化学ノ原則ニ照ラシ恰モ酒造ノ事ヲ其規則中ニ束縛シテ始テ満足ス可キ」。
この新しい酒造方法は国に益するところが大きいと評価しているものの、理屈や理論に基づいたものではなく、とにかくやってみようという試行錯誤でやってみた結果うまくいったにすぎないのではないか、酒造業にも学問的な考え方を取り入れて初めて満足すべきであると批判しているのだ。現状に満足してはいけないと非常に高いハードルを課して、酒造業者を叱咤していることがうかがえる。
酒造業者の立場に立った酒税改革を訴える
その後、明治16年になると、『時事新報』の社説において酒造業が取り上げられるようになる。生産額が多いということは、ここに税を課せば税源的には効果が大きいということになる。そこで福澤は、財政への提言という形でも酒造業に言及している。
たとえば、明治16年7月9日・11日付けの紙面では、「酒造家ノ状況」というタイトルの社説がある。
「国財ヲ増加スベキノ要……其ノ増加ハ専ラ酒税ニ依頼スルノ最モ妙ニシテ最モ容易」
「我邦酒造ノ業ハ年ヲ追テ進歩シ其石数モ年ヲ追テ増加スル勢アルニ際シ近年屡々酒税改正規則ノ為ニ稍減少スル所ナキニアラズ是レ蓋シ税額ノ倍蓰スルガ為ニアラズシテ多クハ検査及納税ノ方法ニ就キ営業上ニ困難ヲ覚ユルガ為ナリ」
ここでは、国の財政を増加するには酒税に頼るのがもっと簡単でいい方法だと述べている。ただし、近年の酒造業は年々進歩し製造高も増しているにもかかわらず、酒税が増額されるたびに製造額がやや減少しているという点を指摘している。
この頃の時代背景としては、明治13年に酒造税則ができ、従来一石につき1円だった税金が、倍の2円になった。当時の課税は儲けた金額ではなく生産高に対して行われており、仮に100石(一石は一升瓶100本分)つくる業者なら、100円だった税金が200円となる。この頃の1円は今の数万円に当たることを考えると、一気に数百万円の増税となるため、業者にとっての負担は大きい。これに対して、明治15年には酒造業者が集まって酒造税の増税に反対する酒屋会議というものが開かれている。しかし、同年には酒造税はさらに倍になり4円となった。短い間にまさに倍々ゲームのように税金が増えているという状況で、酒造税は1900年には地租を抜いて日本の税収の1位を占めるようになる。
これに対して福澤は、税金を上げられるのは誰も喜ばないとしながらも、それ以前の問題として、税を取る基準や方法が酒造家にとって不利であることを批判している。酒の製造高が増税により減少する理由は、単純に税額が倍になったからではなく、むしろ税務署の役人が各酒造家をまわって行う検査や納税の方法のせいで業務に困難が生じることによって生産が減少しているのだとし、その詳細として次の三点を指摘している。
「酒屋一統ハ決シテ酒税ノ増加スルヲ好ムニハアラザレトモ政府能ク酒屋ノ事情ニ通暁シテ実施適応ノ規則ヲ施行セラレナバ仮令税額ヲ増加スルアルモ却テ之ヲ便利トスルノ底意ナリ、其要旨ハ酒桶口引寸法ヲ改正スルコト(第一)検査ヲ滓引後ニ施スコト(第二)及ビ酒税収納ヲ延期スルコト(第三)……税額ニ喋々スルニアラズ検査手続等ニ関シテ改正ヲ望ムモノ」
第一の点は、当時は酒の桶の寸法を測りその中にどれだけの酒が生産されているかということを計算していたのだが、その際に桶の寸法の計り方が公正ではないということを言っている。第二点目は、滓(おり)、つまり酒を製造するときに生ずる不純物を除去する前の状態で検査をするというやり方を問題視している。出荷する酒はこの不純物を除去した量になるので、それを含めた量で課税されるのは不当だというのだ。さらに、滓引きというのは酒を腐りにくくするための作業であるのだが、検査を終えるまでこれを行えないことにより、酒を腐らせてしまうこともある。これでは酒造家が気の毒ではないかと言っているのだ。
そして、第三点目では、酒税時期をずらすべきであると主張している。現状の納期は第一期として4月30日に半額、第二期が7月31日、第三期が8月30日となっていたが、第一期の4月というのは原料代、薪や炭など燃料代の支払いなどが生じ金融が逼迫する時期であった。そういう時期に税金を課すのはいかがなものかというわけである。そこで福澤は、「第一期を6月30日、第二期を8月31日、第三期を10月31日にすべしと、具体的に代案を示している。
この記述からは、福澤が酒造業の内情に非常に詳しいことが見て取れる。福澤は自らも酒好きだったことが知られているが、当時の義塾の門弟にも酒造業の子弟が多くいたこともあり、酒造りの現場にもたびたび訪れていたという。中央の役人たちは、酒造業者たちの日常業務について細かいところまでは知らなかっただろうと思われるのに対して、福澤はその作業をよく心得ており、そうした知識に基づいて業者たちに不利益のないようにという議論を展開している。
同じく『時事新報』では、続く7月12日・13日付けで「酒造業ヲ保護スベシ」というタイトルの社説を掲載し、贋造、模製、密売、脱税などの行為から善良なる酒造業者を保護せよということを訴えている。江戸時代において贋造や模製がそれほど多くはなかった理由は、各領主が酒造業を保護するための制度を持ち、限られた業者にしか酒造を行わせなかったからであるとし、明治維新以後こうしたルールがなくなった結果、こうした不正行為が増えてきてしまったのだとしている。これを解決するためには、欧米諸州で行われているような専売免許や商標条例を日本でも取り入れるなど適当な法律を設けて、善良な業者を保護するべきだと提案している。
西洋科学との融合を主張
『時事新報』の中のさらに注目すべき記事として、明治18年12月15日付の社説「尾州知多郡の酒造改革」を取り上げてみる。明治16年春、知多郡の酒造家百数十名が工部大技長の宇都宮三郎という人物を招き、火を使った低温殺菌に頼らずとも涼しいところに置いておくだけでよいという防腐法を習った。従来は最終工程で50度ぐらいの温度で火入れをするという方法を用いていたのだが、「洞穴を掘り、一個の大樽をここに貯へて試みしに明治十六年冬季醸造の酒にして翌十七年の暑を経過しても少しも変味の徴なし」というように、単に穴を掘ってその中に入れておけば腐らないということを宇都宮は伝えたのだった。そのことによって蒸発分の損失もなく、かつ酒が腐ることもないという、非常に簡単で優れた方法であった。これを踏まえて、翌年秋には知多郡亀崎の伊藤孫左衛門らにより清酒研究所が設立され、その醸造法が実践されている。このことを扱っているのが以下の部分である。
「元来醸造は純然たる学問の事……科学上より研究せざる可らずとの道理は宇都宮君の懇諭する所」
「宇都宮君の防腐法を以て此損失を免れたるは独り知多郡の酒造家を利するのみならず日本国の損失を救ふたるもの」
「君が斯る大発明を以て日本国に利益を起こしたる日本国人は……顧みる者さへなき」
「主人の待遇薄ければ客かの家に留らず、我輩は西洋の文明学が日本に居り其待遇の薄きを見て辞し去らんことを恐るゝ者なり」
宇都宮のような科学的な研究に基づく酒造改革は、産業は学問と密接な関係を持つべきであるという福澤の考え方とも一致するものであり、こうしたものを日本の業者も取り入れるべきであると称賛している。一方で、宇都宮がこのようなすばらしい醸造法を伝えてくれたというのに、それに対する礼が足りないということを嘆いている。せっかく西洋文明が導入されたにもかかわらずそのような態度でいたら定着しないのではないか、もっと感謝するべきであるというのだ。
西洋を絶対視しないという考え方
この文明塾のベーシック・リーディングにおいては、共通のテキストとして『文明論之概略』が設けられている。この書物の中には直接酒造業に関する記述は見られないが、全体を覆う概念として、「西洋を絶対視しない」というコンセプトがある。西洋の良いところは積極的に取り入れるべきであるが、それを絶対視するのではなく、元からある日本の良さも認めて尊重していこうというこの基本的な考えは、今回見てきたような酒造業への向き合い方にも反映されているのではないだろうか。
以上をまとめてみると、当時日本最大の工業であった酒造業に対して、業者の立場に立って公正な税の取り方をするべきだと主張する温かいまなざしと同時に、従来の経験だけに頼る方法を改め、科学的根拠に基づく醸造法を取り入れるべきであるという厳しいまなざしも向けている。日本に古くから伝わる伝統のよさと、西洋の科学的な要素をとうまく融合させていくことで、今後の日本の酒造業の未来が開けていくのだと主張しているのである。
<編集後記>
急速な西洋化を進める時代において、酒造業という日本古来の伝統産業をいかに守り、発展させていくのかは、グローバル化が進む現代にも通じるこのテーマでもある。当事者の実情に真摯に向き合いながら、同時に自らの考え方を反映した提言を行う福澤の姿勢から学ぶところは多いかもしれない。

福澤諭吉に関する文献を題材に、福澤研究の専門家からその教えを学ぶベーシック・リーディング。今回は近世・近代の経済史を専門とする井奥さんを講師に迎え、福澤が当時の日本の酒造業をどう捉えていたかがうかがえる史料を読み解く。そこには福澤の思想がどのように反映されているのだろうか。

 


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当時の工業生産物トップだった酒造業

 

日本では古くから、日本酒をはじめ醤油、味噌、みりん、酢などの醸造業が発達してきた。醸造業とは微生物の力を用いて飲料や食料を作る産業のことである。日本の温暖湿潤な気候が醸造に適していたことに加え、細やかで繊細な日本人の特性が活かされたものともいえる。なぜなら、微生物は下手をすると死滅の恐れがあるなど、その扱いには非常にきめ細かい注意を払う必要があるからだ。酒造りにおいては、杜氏と呼ばれる技術者が自らの経験を活かしながら丹精こめて作り上げてきた歴史があり、これは今日でも完全に自動化することはむずかしいとされている。

 

ioka4.JPGでは、福澤の時代の醸造業はどのような状況であったのか。明治7年に発表された「府県物産表」という日本初のマクロ統計によると、当時の第二次産業の生産物、すなわち工業製品のうち、その生産額が一番多かったのは酒であった。続いて2位には綿織物、3位は醤油、4位が生糸、5位に味噌、8位が絹織物という順位になっている。この時代の産業というと、輸出品として外貨の稼ぎ頭だった生糸や、いち早く機械化した紡績業が注目されることが多い。しかし、数字的には繊維産業よりも醸造業の方が生産高は高かったのであり、この時代の工業の中心は醸造業であったと考えてよいだろう。

 

経験だけでなく、学問的思考を取り入れよ


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このように日本の伝統産業である醸造業の中でも最も生産額の高かった酒造業について、福澤が初めてまとまった形で論じていると思われる記述が、明治14年に出版された『時事小言』の中にある。「殖産興業」というスローガンに基づき日本の産業を振興していこうという流れの中で注意すべきことのひとつとして、「殖産ノ実際ト学問ノ規則ト相互ニ密着セシムル事」、すなわち、実際の産業と理論的な側面としての学問を相互に関連させながらやっていかなくてはいけないと主張している部分である。「農工商ハ無学無識、学者ハ実際ノ事ニ疎」すなわち、実際に産業をやる側は学問的に劣り、学者は理論的には優れていても実際のことには疎いものである。この両者が互いに感化しあって、実際と理論をうまく整合していくべきであると述べている。この辺は今でいう産学協同という考え方にもつながってくるのかもしれない。

 

 

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この記事ではその具体的な事例として、尾張知多郡の酒造家であった盛田久左衛門が天保9年(1838年)に行った酒造改革の例を挙げている。仕込みに使う水の量を増やすことで酒の量そのものを増産しただけでなく、結果的に、甘くどろっとした従来の酒に比べるとより洗練された酒が造れるようになったというものだ。福澤によると、全国的にこの新しい方法を用いて生産すれば、従来の方法に比べて3400万円も生産量を増やすことが可能だという。この金額は、当時の国家予算の半額よりも大きい。これに対して福澤は以下のように述べている。

 

「此法式ノ改革ヲ以テ国益ヲ為シタルノ事実ハ誠ニ明白ナレドモ其改革ヲ施ス際ニ一句ノ論理モ用ヒズ、一条ノ原則ヲシラズ」

「学問ノ主義ヲ活用シテ……化学ノ原則ニ照ラシ恰モ酒造ノ事ヲ其規則中ニ束縛シテ始テ満足ス可キ」。

 

この新しい酒造方法は国に益するところが大きいと評価しているものの、理屈や理論に基づいたものではなく、とにかくやってみようという試行錯誤でやってみた結果うまくいったにすぎないのではないか、酒造業にも学問的な考え方を取り入れて初めて満足すべきであると批判しているのだ。現状に満足してはいけないと非常に高いハードルを課して、酒造業者を叱咤していることがうかがえる。

 

 

酒造業者の立場に立った酒税改革を訴える

 

その後、明治16年になると、『時事新報』の社説において酒造業が取り上げられるようになる。生産額が多いということは、ここに税を課せば税源的には効果が大きいということになる。そこで福澤は、財政への提言という形でも酒造業に言及している。

 

たとえば、明治16年7月9日・11日付けの紙面では、「酒造家ノ状況」というタイトルの社説がある。

 

「国財ヲ増加スベキノ要……其ノ増加ハ専ラ酒税ニ依頼スルノ最モ妙ニシテ最モ容易」

「我邦酒造ノ業ハ年ヲ追テ進歩シ其石数モ年ヲ追テ増加スル勢アルニ際シ近年屡々酒税改正規則ノ為ニ稍減少スル所ナキニアラズ是レ蓋シ税額ノ倍蓰スルガ為ニアラズシテ多クハ検査及納税ノ方法ニ就キ営業上ニ困難ヲ覚ユルガ為ナリ」

 

ここでは、国の財政を増加するには酒税に頼るのがもっと簡単でいい方法だと述べている。ただし、近年の酒造業は年々進歩し製造高も増しているにもかかわらず、酒税が増額されるたびに製造額がやや減少しているという点を指摘している。

 

 

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この頃の時代背景としては、明治13年に酒造税則ができ、従来一石につき1円だった税金が、倍の2円になった。当時の課税は儲けた金額ではなく生産高に対して行われており、仮に100石(一石は一升瓶100本分)つくる業者なら、100円だった税金が200円となる。この頃の1円は今の数万円に当たることを考えると、一気に数百万円の増税となるため、業者にとっての負担は大きい。これに対して、明治15年には酒造業者が集まって酒造税の増税に反対する酒屋会議というものが開かれている。しかし、同年には酒造税はさらに倍になり4円となった。短い間にまさに倍々ゲームのように税金が増えているという状況で、酒造税は1900年には地租を抜いて日本の税収の1位を占めるようになる。

 

これに対して福澤は、税金を上げられるのは誰も喜ばないとしながらも、それ以前の問題として、税を取る基準や方法が酒造家にとって不利であることを批判している。酒の製造高が増税により減少する理由は、単純に税額が倍になったからではなく、むしろ税務署の役人が各酒造家をまわって行う検査や納税の方法のせいで業務に困難が生じることによって生産が減少しているのだとし、その詳細として次の三点を指摘している。

 

「酒屋一統ハ決シテ酒税ノ増加スルヲ好ムニハアラザレトモ政府能ク酒屋ノ事情ニ通暁シテ実施適応ノ規則ヲ施行セラレナバ仮令税額ヲ増加スルアルモ却テ之ヲ便利トスルノ底意ナリ、其要旨ハ酒桶口引寸法ヲ改正スルコト(第一)検査ヲ滓引後ニ施スコト(第二)及ビ酒税収納ヲ延期スルコト(第三)……税額ニ喋々スルニアラズ検査手続等ニ関シテ改正ヲ望ムモノ」

 

第一の点は、当時は酒の桶の寸法を測りその中にどれだけの酒が生産されているかということを計算していたのだが、その際に桶の寸法の計り方が公正ではないということを言っている。第二点目は、滓(おり)、つまり酒を製造するときに生ずる不純物を除去する前の状態で検査をするというやり方を問題視している。出荷する酒はこの不純物を除去した量になるので、それを含めた量で課税されるのは不当だというのだ。さらに、滓引きというのは酒を腐りにくくするための作業であるのだが、検査を終えるまでこれを行えないことにより、酒を腐らせてしまうこともある。これでは酒造家が気の毒ではないかと言っているのだ。

 

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そして、第三点目では、酒税時期をずらすべきであると主張している。現状の納期は第一期として4月30日に半額、第二期が7月31日、第三期が8月30日となっていたが、第一期の4月というのは原料代、薪や炭など燃料代の支払いなどが生じ金融が逼迫する時期であった。そういう時期に税金を課すのはいかがなものかというわけである。そこで福澤は、「第一期を6月30日、第二期を8月31日、第三期を10月31日にすべし」と、具体的に代案を示している。

 

この記述からは、福澤が酒造業の内情に非常に詳しいことが見て取れる。福澤は自らも酒好きだったことが知られているが、当時の義塾の門弟にも酒造業の子弟が多くいたこともあり、酒造りの現場にもたびたび訪れていたという。中央の役人たちは、酒造業者たちの日常業務について細かいところまでは知らなかっただろうと思われるのに対して、福澤はその作業をよく心得ており、そうした知識に基づいて業者たちに不利益のないようにという議論を展開している。

 

同じく『時事新報』では、続く7月12日・13日付けで「酒造業ヲ保護スベシ」というタイトルの社説を掲載し、贋造、模製、密売、脱税などの行為から善良なる酒造業者を保護せよということを訴えている。江戸時代において贋造や模製がそれほど多くはなかった理由は、各領主が酒造業を保護するための制度を持ち、限られた業者にしか酒造を行わせなかったからであるとし、明治維新以後こうしたルールがなくなった結果、こうした不正行為が増えてきてしまったのだとしている。これを解決するためには、欧米諸州で行われているような専売免許や商標条例を日本でも取り入れるなど適当な法律を設けて、善良な業者を保護するべきだと提案している。

 

 

西洋科学との融合を主張

 

 

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『時事新報』の中のさらに注目すべき記事として、明治18年12月15日付の社説「尾州知多郡の酒造改革」を取り上げてみる。明治16年春、知多郡の酒造家百数十名が工部大技長の宇都宮三郎という人物を招き、火を使った低温殺菌に頼らずとも涼しいところに置いておくだけでよいという防腐法を習った。従来は最終工程で50度ぐらいの温度で火入れをするという方法を用いていたのだが、「洞穴を掘り、一個の大樽をここに貯へて試みしに明治十六年冬季醸造の酒にして翌十七年の暑を経過しても少しも変味の徴なし」というように、単に穴を掘ってその中に入れておけば腐らないということを宇都宮は伝えたのだった。そのことによって蒸発分の損失もなく、かつ酒が腐ることもないという、非常に簡単で優れた方法であった。これを踏まえて、翌年秋には知多郡亀崎の伊藤孫左衛門らにより清酒研究所が設立され、その醸造法が実践されている。このことを扱っているのが以下の部分である。

 

「元来醸造は純然たる学問の事……科学上より研究せざる可らずとの道理は宇都宮君の懇諭する所」

「宇都宮君の防腐法を以て此損失を免れたるは独り知多郡の酒造家を利するのみならず日本国の損失を救ふたるもの」

「君が斯る大発明を以て日本国に利益を起こしたる日本国人は……顧みる者さへなき」

「主人の待遇薄ければ客かの家に留らず、我輩は西洋の文明学が日本に居り其待遇の薄きを見て辞し去らんことを恐るゝ者なり」

 

宇都宮のような科学的な研究に基づく酒造改革は、産業は学問と密接な関係を持つべきであるという福澤の考え方とも一致するものであり、こうしたものを日本の業者も取り入れるべきであると称賛している。一方で、宇都宮がこのようなすばらしい醸造法を伝えてくれたというのに、それに対する礼が足りないということを嘆いている。せっかく西洋文明が導入されたにもかかわらずそのような態度でいたら定着しないのではないか、もっと感謝するべきであるというのだ。

 

 

西洋を絶対視しないという考え方

 

 

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この文明塾のベーシック・リーディングにおいては、共通のテキストとして『文明論之概略』が設けられている。

 

この書物の中には直接酒造業に関する記述は見られないが、全体を覆う概念として、「西洋を絶対視しない」というコンセプトがある。西洋の良いところは積極的に取り入れるべきであるが、それを絶対視するのではなく、元からある日本の良さも認めて尊重していこうというこの基本的な考えは、今回見てきたような酒造業への向き合い方にも反映されているのではないだろうか。

 

以上をまとめてみると、当時日本最大の工業であった酒造業に対して、業者の立場に立って公正な税の取り方をするべきだと主張する温かいまなざしと同時に、従来の経験だけに頼る方法を改め、科学的根拠に基づく醸造法を取り入れるべきであるという厳しいまなざしも向けている。日本に古くから伝わる伝統のよさと、西洋の科学的な要素をとうまく融合させていくことで、今後の日本の酒造業の未来が開けていくのだと主張しているのである。

 

 

<編集後記>

 

急速な西洋化を進める時代において、酒造業という日本古来の伝統産業をいかに守り、発展させていくのかは、グローバル化が進む現代にも通じるこのテーマでもある。当事者の実情に真摯に向き合いながら、同時に自らの考え方を反映した提言を行う福澤の姿勢から学ぶところは多いかもしれない。

 

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