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福沢文明塾 コア・プログラム講義録

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第13期コア・プログラム
ベーシック・ナレッジ
「美の創造としての禅修行」

講師:藤田 一照
(曹洞宗 僧侶、曹洞宗国際センター所長)
インタビュアー:前野 隆司(福澤文明塾 プログラム・コーディネーター、慶應義塾大学 大学院システムデザイン・マネジメント研究科委員長)
ライター:永井 祐子
セッション開催日:2015年6月4日

最近、欧米でも熱い注目を浴びている坐禅。藤田さんは東京大学大学院で教育心理学を専攻した後に曹洞宗の僧侶となり、1987年から17年間アメリカで禅の指導を行った経験を持つ。その体験もふまえ、禅修行を通した美の創造というのがこの日のテーマだ。

 

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日常の些細なことに崇高さを感じる感受性


 「禅の修行と美」というテーマを考えるにあたって、まず取り上げられたのは、共和制ローマ期の詩人・哲学者であるルクレティウスによる『物の本質について』という作品の一節だ。ルクレティウスは「如何に偉大にして驚嘆すべきことでも、徐々には必ず誰しも驚きを減じていくもの」だと述べている。空の色、風、月、太陽の光など、初めて見たときには、あるいはもし思いがけなく突如として展開されたら驚くべきものでも、それを見続けていると、見飽きたり、見る価値があるとは思わなくなるというのである。fujita_11.jpg
 また、川端康成が『末期の眼』の中で触れているように、もうすぐ死んでいく人間の眼には、自然はより一層美しく見えるとも言われている。
藤田さんによると、これらの考え方は瞑想しているときの感覚にリンクするものだという。「世界を今初めて見るかのように体験するセンシビリティなくして、美というのはありえないのではないでしょうか。そして、この感受性は訓練によって取り戻すことができるのではないか。そして、坐禅がやっていることもそこに通じるように感じています」。
 西洋における神秘主義が、私たちが普段見ている退屈な日常とは別に、現象世界の背後に超越的な秩序や究極的なリアリティがあるのではないかという憬れを持ち、それを追求するのに対して、他ならぬこの現実世界を別様に見ていこうというのが禅なのだと藤田さんは考えている。
そこでキーワードとなるのが「everyday sublime」という言葉だ。これは、日常生活の些事、平凡な物そのものに崇高さを見出すという意味である。「末期の眼や、世界を今初めて見るような感受性がないと、その崇高さと出会うことはできません。美というのは、客観的に存在して誰にでも分かるというものではなく、見る側の人との関係で、あったりなかったりする、そういうものなのではないでしょうか」。
崇高という美を感じるためには、現実から眼をそらすのではなくて、こちら側の感受性を質的に変容させていくというアプローチが必要なのだ。そのために、今この瞬間にこのわたしという有機体とそれを包む環境の全体に起きていることに対して、浄化された知覚のドアを通してフレッシュにきめ細やかに出会おうとするプロジェクト、それが禅における瞑想なのだという。

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崇高に向かって「何もしない」能力~negative capability


 では、ここでいう崇高とは何か。キーツ、コールリッジ、ワーズワースなどロマン主義の詩人が論じた概念によれば、美と崇高とは同じく快感をわれわれにもたらすものであっても、実は異なるものだとされている。崇高というのは、単に美しいだけではなく、fascinating でterrifying すなわち私たちを魅惑すると同時に畏怖や恐れの感情を引き起こすような圧倒的な何かである。たとえば雪をかぶったアルプスの山など巨大なもの。日本でも、古くから巨大な岩や山には神が宿るとしてしめ縄を飾ったりするが、まさにその感覚である。言葉を失わせ、感情や思考を無力にするもの、そして私たちが普通に生きている昨日があって今日があって明日があるという物語の意味が一切無くなる瞬間が訪れるような圧倒的なもの、それが崇高なのだ。
「私たちは普段、なるべくそんなものが入り込まないように、すべてはコントロール下にあるという日常を築くために一生懸命がんばっているような気がします。その結果、崇高からは遠ざかってしまっているのです」。fujita_5.jpg
 崇高さを論じたロマン主義の詩人たちが重要視したのはnegative capability、すなわち「何もしないという能力」だ。私たちが日常で考える能力とは何かをするための能力positive capabilityだが、それとは反対に、「何もしない」能力である。「negative capabilityとは、既知と未知との間に留まっていられる能力です。私たちはたいてい、すぐに説明や答えを探したり、安易に納得してしまったりして、既知の方に向かって事実や理由を短気に求めようとします。しかし、それではクリエイティブなことはできないのです」。キーツは、この能力を桁外れに持っていた人物の一例としてシェイクスピアを挙げている。文学や絵画など、未だそこにないものを想像でつくり出していくような真の芸術的営みにおいては、このnegative capabilityが必須となるのだという。
 そして、このnegative capabilityというのは、まさに坐禅が培っているものではないのか。「坐禅とはこちら側で何もしない時間を持つことです。しかし、寝ているわけでもなく、思索にふけっているわけでもない。そういうあり方をなんとか肯定的な言い方で表現できないかと思っていましたが、まさにこの言葉が当たっているような気がします」。

 

 

現実世界を別様に見るというアプローチ


 ブッダによると、我々にとっての世界とは認知の総体のことであるという。つまり、音、光、匂い、味、身体感覚、思考という6つの感覚のドアから入っているインプットがすべてである。ここでいう世界とは客観的にあるものではなく、「欲望を持った衆生の認知によって形成される」ものなのだ。
そこで問題になるのは、その世界というのは、私たち一人ひとりがつくっているものだということである。人それぞれ見ているもの、聞いているもの、注意を払っているものは異なる。それによって異なる世界が立ち上がっているのであり、各自が世界という像を結ぶ際の焦点として機能するのが、仏教でいう「我」である。我とは、渇愛、煩悩、我執といったものから成り立っている。崇高なものに出会ったときに、こうした我を一時的にストップさせてしまうというのだ。fujita_12.jpg
 私たちがつくっている世界は、しょせん我がつくっているものであるから、不明瞭で平板で不適切なものである。そこから生じてくる何とも言えない居心地の悪さをなんとか忘れ、解消するための装置として、多くの文明の中でお酒やお祭りなどが使われてきた。美もその慰めのひとつとして存在するのかもしれない。しかし、そういう退嬰的な方法ではなく、この世界の中にいるもうひとつのあり方を求める、すなわち現実世界を別様に見るというアプローチがeveryday sublimeなのではないか。
 つまり、崇高なものをどこかよそに探しに行くのではなく、目の前、身の回りにあるすべてのものが崇高に感じられるような自らの感受性を磨いていくということだ。「禅はまさにそれを非常に得意にしているものだと思います。そもそも仏教は、音や呼吸、自分の身体感覚など非常に身近なものに注意を向ける訓練をシスティマティックにやっていくという特徴があるのです」。

 

 

<インタビューセッション>


【前野さん】
禅とは、要するに美しいものを求めるということだという理解でいいのでしょうか?

【藤田さん】
違います。求めるというと、こちらに構えがあり、その構えに相応したものしか現れません。negative capabilityというのは、構えないというあり方です。私たちが日常の生活で磨くスキルは早いもの勝ちのレースのように、自分からアグレッシブに取りに行くart of takingですよね。receiveするというのはtakeするのとは別のモードに入る必要があります。坐禅で足を組むのは、移動しないという意味で、手を組むのも道具を使わないという意味です。つまり、二足歩行で移動する、手で道具を使う、口でしゃべる、頭脳で思考するという人間特有の能力をすべていったん横に置いておくわけです。art of takingがすべて悪いというわけではないのですが、私たちはあまりにもそちらに偏りすぎているのではないか。takeだけではすまないのが人生なのではないかということです。私も若いときはtake、takeでがんばってきたけれど、仏典や道元の教えを読み直してみて自分の間違いに気付いた時期がありました。そうしたモードが変わると、美というものの意味も変わってきたのです。fujita_13.jpg

【前野さん】
最近Googleなど、瞑想の考え方を取り入れようという企業が出始めています。そういう仏教の役立つ部分だけを切り取って使おうとする試みについて、どう感じますか?

【藤田さん】
仏教の中には、その行法の一部だけを取り出して世俗的な文脈で使ってもじゅうぶん役に立つものは確かにあります。そういう意味ではいろいろな世俗的な応用法があるし、それを役立ててもらうのはいいと思います。ただ、対症療法的に使えたとしても、その先はどうするのか、ということがやはり問題です。どう生きるのかという本来仏教がメインにしている根本の部分の問題は残ってしまいます。普通にいう悩みとか職場の人間関係の問題とかというのは、「私」という物語の中で起きている話です。その人生上の諸問題が解けたとしても、その物語を成り立たせている「私」が存在している人生そのものの問題は、それで自動的に解決するものではないのです。人生上の諸問題がなぜ起きるかというと、実は人生そのものの問題から派生して二次的に起きているわけですから、いずれはそこまで降りて行かなくてはいけないのです。しかし、人生上の諸問題に対処する技術やさまざまなスキルが発達した現代社会では、そこのところはなるべく見ないですませるようになっているために、伝統的な宗教がもはやたいして意味をなさず、ますます世俗化してきているのだと思います。それでも、年老いて、病気になって、死んでいくということは少しも変わらないのですから、それを避けるのではなく、ちゃんと真正面から取り組めば、もう少し人生が立体的になって、奥行きを持った風通しのいいものになっていくような気がしています。

 

 

<質疑応答>


【塾生】
仏教は宗教であるといえるのでしょうか?

【藤田さん】fujita_3.jpg
宗教というものの定義によるでしょう。宗教の概念を啓示宗教、一神教のそれに限定して考えれば、仏教はそれとはフレームワークがまったく違います。日本語でいう宗教というのは、根本的な教えという意味です。そういう広い意味でいえば、神様とか超越的なものを信じるものだけが宗教だとは言えず、仏教も立派に宗教だと言っていいと私は思います。

【塾生】
そもそも、宗教とはなんだろう?と考えてしまいます。日本には無神論者が多いとも言われますが、それをどう思いますか?

【藤田さん】
私自身は、無神論というか非神論者です。仏教ではキリスト教的な創造神は理論上も実践上も必要としていません。宗教とは何か。苦しみ、苦悩など、生きているとさまざまな不条理なことが起こります。それに対してさまざまなアプローチがあります。科学は苦悩の原因をたたきつぶす努力だと言えます。熱を出しているのは病原菌のせいだからそれを抗生物質でたたきつぶすとか。芸術は一時的な美による陶酔で苦しみを忘れさせてくれます。そして宗教は慰めてくれます。では仏教はそういうタイプの宗教なのかというと、そういう宗教ではなく、苦しみの原因を見つけて理解し、その原因を変えることで苦しみを通ってそれを乗り越えようという試みです。たたきつぶす、一時的に忘れさせる、慰めるという今までのアプローチとはまったく異なる、新しいアプローチです。ブッタの革新的なところは、苦しみを理解してそれを乗り越えていくという道をつくりだしたことだと思います。

【塾生】
日本の仏教のどんなところが美しいと思いますか?

fujita_8.jpg【藤田さん】
明治時代の廃仏毀釈のように仏教が消えるかもしれない危機もありましたが、そうしたいろいろな歴史的なクライシスを乗り越えて、今もなおこれだけの数のお寺やお坊さんが存在しているということは、いろいろ言われながらもやはりそれなりの意義があるからでしょう。日本の仏教はまだまだ底力はすごくあると思っています。さらに、実に多くのバラエティに富んだ仏教があり、これだけ対極的なものが共存しているのはすごいことだと思います。お寺や庭も美しいし、これはまさに世界に誇れる日本の財産と言えるでしょう。ただ、惜しいのは観光が主になってしまっているということです。仏教は基本的には修行の宗教なので、マインドフルネスのように世俗された形でもいいから、自分の呼吸に帰るとか、背筋を伸ばして5分でも坐るとか、念仏するとか、お経をあげるとか、仏教の行法が毎日歯を磨くような感覚で日々の生活の中に取り入れられるようになるといいなと思います。行によって自分が変容することでそれまで見えなかった世界や人生の美しさを実感できるようになるところに仏教の素晴らしさがあるのです。昔のように理解の難しい漢字のジャルゴン(理解不能な言葉)ではなく、もっと若い人にも分かるような日常用語のボキャブラリとピンとくるメタファーを使って仏教のコアの部分をしっかり一般に伝えていくという努力をすれば、明るい未来の創造に貢献できる文化財、リソースであると私は考えています。

 

 

<クロージングメッセージ>


仏教に対していろいろ批判はありますが、個人的には、日本の仏教はまだまだ捨てたものではないと思います。みなさんのような方がもっと仏教に対してどんどん注文を出すといいのです。どしどしリクエストして、これまで安閑としてきた日本仏教に活を入れてくれればいいと思います。そんな考えから、私は今、若い人向けに年齢制限付きの仏教塾を毎月やっています。そうやって仏教の底上げ、アップデートをしていけば、まだまだ世界に発信できるものになると信じています。

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<編集後記>


実際に瞑想を体験してみることから始まったこの日のセッション。日本古来の仏教や禅をテーマにしながら、西洋の思想家の引用や数々の英語表現を用いながら展開されるお話は新鮮で、信じる・信じないという宗教的な側面とは別次元の新たな向き合い方を知る経験となった。

 

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