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福沢文明塾 コア・プログラム講義録

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第12期 コア・プログラム
ベーシック・リーディング
「慶應義塾の絆- 修身要領(モラルコード)を繙く -」

講師:米山光儀
(慶應義塾大学 教職課程センター 教授)
ライター:永井 祐子
セッション開催日:2014年11月29日

今期3回目のベーシック・リーディング。今回取り上げるのは、晩年の福澤が門下生たちに編纂させた『修身要領』だ。慶應義塾のモラルコードとも言われているこの文章が成立した時代背景を追いながら、これが誰に向けてどんな意図で書かれたものなのかを考えてみる。

 

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福澤の考える道徳教育の重要性とは

 

慶應義塾の起源は、福澤が安政5年(1858年)に大坂の適塾から江戸に呼ばれ、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内に蘭学塾を開いたことに始まる。明治の終わり頃に著された『慶應義塾50年史』内の描写によると、学問には励むが生活にはほとんど心を砕かない塾のありようが見て取れる。おそらく、適塾時代の福澤自身が学問以外のことには一切かまわないという生活を送ってきたため、それを踏襲した形で塾の経営がなされてきたのだろう。
慶應末年になり、塾が芝の新銭座に移り慶應義塾と命名された頃には、『慶應義塾之記』にさまざまな規則が記されているように、生活のあり方をも律することを目指していたようだ。その後明治4年に三田のキャンパスに移った後にも、『入塾の人に告る文』として集団生活を継続させるための基本的な約束ごとが書かれており、生活の中である種の風儀を形成していこうとしていた様子が伺える。
明治5年に発表された『学問のすすめ』初編の中では、学ぶべき実学として、いろは47文字や手紙の文言など江戸時代の庶民が寺子屋で学んでいたようなことに続き、進んで学ぶべきこととして地理学、究理学、歴史、経済学に次いで修身学を挙げている。すなわち、この頃の福澤の中では、修身学は高度な学問のひとつとして考えられていたのである。

 

儒教主義には一貫して批判的

 

一方、その頃日本の道徳教育の状況は刻々と変化していく。維新以来の欧米化への反発という流れもある中で、明治10年代には明治天皇の名で『教学大旨』が出され、徳育重視が提示される。これに対して伊藤博文が『教育議』で反論するなど、いわゆる教育議論争を経て、明治13年には改正教育令が公布され、修身が教科の筆頭にすえられる。さらに、伊藤博文らが大隈重信らを追放した明治14年の政変以後は、儒教を中心とした道徳教育が国の政策となっていく。
yoneyama_3.jpgこうした儒教主義の拡大に対して、福澤は一貫して批判的な態度を取っており、そのひとつとして『徳育如何』という書を著している。元々は『時事新報』に掲載された文章で、教育の位置付けという意味において、教育学の立場から見ても興味深いものである。
たとえば、「人の智徳は教育によりておおいに発達すといえども、ただその発達を助くるのみにして、その智徳の根本を資るところは、祖先遺伝の能力と、その生育の家風と、その社会の公議輿論とにあり」とし、道徳教育の方向性を「公議輿論」(公正な議論による民意)という言葉を使って示している。続いて「天下の風潮は、つとに開進の一方に向いて、自主独立の輿論はこれを動かすべからず。すでにその動かすべからざるを知らば、これにしたがうこそ智者の策なれ。けだし学校の教育をして順に帰せしむること、流にしたがいて水を治むるが如くせん」とある。すなわち社会は自主独立という方向に向かっているのだから、道徳教育は儒教主義で古に戻るのではなく、自主独立に沿って行われるべきものなのだということを主張している。
しかし、世の中の儒教主義的な流れは、明治23年に発布された教育勅語で決定づけられる。教育勅語は、社会上の君子である天皇が自らの考えを公に告げるという形式で出されたが、学校では儀式の際に奉読することとされた。後には、天皇皇后の御真影と共に奉安殿と呼ばれる保管庫に保管され、神格化された扱いを受けるようになる。修身の授業でも、そこに書かれている徳目に沿った内容が展開され、教育勅語は徐々に学校の中に定着していくことになる。
これに対して福澤は、教育勅語が出された2年後の明治25年に『時事新報』に書いた「教育の方針変化の結果」という社説の中で、明治14年の政変以来の古学流の教育方針は、政府のもっとも大きな失策であるということを述べている。古学流とは儒教主義のことを指すが、当然その中には教育勅語も含んでいると考えられ、教育勅語も含めた教育の方針変化の結果として、これを批判しているのである。

 

 

『修身要領』普及のためには、慶應義塾の廃塾も辞さない

 

さらに福澤は、『修身要領』を中心として独立自尊主義を展開していくことになる。明治31年に病に倒れた福澤は、回復後、門下生たちとともに『修身要領』の編纂に着手する。明治33年に発表された『修身要領』は前文と29条から成っており、その前文に「徳教は人文の進歩と共に変化するの約束」と書かれているように、道徳教育は変化するものであるという認識で論が展開されているところにひとつの特徴がある。『徳育如何』においても、公議輿論は人文の進歩と共に変化していくということが前提となっていたのと同様に、変化するという意味での進歩主義的な道徳観が示されている。その上で、当時必要と考えられた修身処世について、個人道徳、男女道徳、家族関係、社会道徳、国民道徳、独立自尊の主義の普及という形で展開されていくのである。
発表当時、この『修身要領』は慶應社中に示すべき道徳上の指示書とされていた。しかし発表後すぐに『時事新報』などの新聞に掲載され、さらには講師が3,4名で地方をまわる『修身要領』の普及講演会なるものが福澤の資金援助で開かれた。こうした集まりは全部で100回を超えたと言われ、さらにその談話を集めた小冊子も出版されるなどして、社中を越えて広く普及活動が行われていた。
yoneyama_4.JPG実は福澤は最晩年において、慶應義塾を廃塾にするという意向を示している。しかるべき社会的地位に就いた卒業生たちが、その果たすべき社会的責任を果たしていないことを憂いたためとも言われているが、慶應義塾を廃塾にして土地を売却し、その分の資金を『修身要領』普及運動に使いたいと考えたのだ。周囲の反対を受け、またその2カ月後に福澤自身が亡くなったこともあり、廃塾は実現しなかったものの、福澤が『修身要領』の普及を強く願っていたということが窺い知れるエピソードである。
では、こうした経緯で発表された『修身要領』は、教育勅語のオルターナティブになり得るものであったのだろうか。『修身要領』には「万世一系の帝室」という言葉が出てくるように帝室と無縁のものではないものの、明治15年の『帝室論』の中で触れているように、福澤自身は帝室を「政治社外のもの」と考えていた。それ故に、内容はともかく、帝室の位置付けという形式の問題から考えると、「社会上の君主の著作広告」として出された教育勅語を乗り越えることは、極めて困難だったのではないかと思われる。

 

モラルコードを成文化した福澤の思い

 

慶應義塾の中では『修身要領』の精神の普及が行われ、福澤の死後も大正期の中期ぐらいまでは引き継がれていた。現在の塾生が『修身要領』を目にする機会はあまりないかもしれないが、「独立自尊」という言葉は多くの人が知っているだろう。『修身要領』そのものは非常に細かく成文化されているが、現実には成文化されたそのものが普及していくというよりも、その中心的な理念である「独立自尊」という言葉が、さまざまな解釈をされながら、今も慶應義塾の中に脈々と残っていると言える。その意味では、慶應義塾の中には『修身要領』が確かに伝わっているのだと思うが、それ以上に、そこに出てくる「独立自尊」という言葉が一人歩きをして、実際に慶應義塾で学ぶ人たちの心の習慣に大きな影響を与えているのではないだろうか。
そもそも、成文化されたモラルコードというものが、慶應義塾という学校の中で本当に必要だったのであろうか。『修身要領』の中身である「独立自尊」という言葉自体はスローガン的な意味を持っているのでいいとしても、それを細かくさまざまな形で書いていくことが果たして妥当なことなのか。それは本来一人ひとりが自分で考えていくべき事柄ではないだろうか。
『学問のすすめ』の第5編にも書かれているように、福澤は現実的な民衆の状況は早急に進歩するものではないと理解した上で、慶應義塾においてミドルクラスを作っていくことを期待していた。原書を使って勉強するような人たちをターゲットにする一方で、それ以外の日本国民もいるという現実も認めざるを得ない。そうした階層的教育観を持っていた福澤は、子供たちに対しては日々の教えを書いたもの、すなわち成文化されたモラルコードが必要だと考えていたであろう。しかし、慶應義塾の中では、本来はそこで学ぶことによって心の習慣が形成されるべきなのに、いつのまにかそれが難しくなってしまった。それが故に、成文化されたモラルコードを作らざるを得ない状況になったのではないか。
そういう意味では、成文化されたモラルコードとして『修身要領』が作られたということは、福澤が慶應義塾を含めて自分の周囲の人々を子供扱いしたと言えるかもしれない。すなわち、成文化したモラルコードを作らざるをえないような状況が、当時の慶應義塾にはあったということが、『修身要領』のスタートだったのではないだろうか。

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質疑応答

 

【塾生】
成文化自体が妥当かどうかという話がありましたが、逆に成文化しないでそれだけのことを考えさせる教育というのは、たとえばどんなものが考えられるのでしょうか。
【米山さん】
確かにむずかしいことです。教育を知育、徳育、体育に分けて考えると、知育と徳育は本来別なものですが、モラルコードを成文化すると、知識として教えるモラルは知育であって徳育ではありません。知育ではない徳育とは、実際の所は生活の中での生活規範みたいなものからスタートしていくものなのだと思います。当時は寄宿舎、寮なので、そこで暮らしながら人間関係を作っていく中で、ある種の風儀のようなものを作っていくということになるのではないでしょうか。たとえばこの文明塾でも、ある種のルールはあるにしても特定のモラルコードが作られているわけではないにも関わらず、ここで何ヶ月か一緒に学ぶ中で形成されるものがあるでしょう。それは決して知識だけの問題ではないはずです。そういうところから形成されていくものと考えたらどうでしょうか。

【塾生】
成文化してしまうと、独立自尊がハウツーに陥ってしまうのが問題なのかと思います。企業におけるコンプライアンスなども同様ですが、文字化して箇条書きにした時点で本来の目的が忘れられて、書かれていることさえ守ればいいという単なるチェックリストになってしまうような気がします。
【米山さん】yoneyama_5.JPG
そういうこともあるでしょうね。ただ、すべての人が成文化しなくても大丈夫なのかという点には問題があるかもしれません。

【塾生】
当時は少人数だから成文化されたモラルコードがなくてもよかったかもしれませんが、今の慶應義塾のように大人数になると、目に見えるものがない状態ではどうしたらいいか分からないと思います。今の時代においても、モラルコードは成文化しない方がいいと思われますか?
【米山さん】
細かくする必要ないと思っています。『修身要領』はこれだけ普及させようとしてもう結局うまく普及しなかったにもかかわらず、「独立自尊」という言葉だけは残っています。その解釈は様々にありうるとしても、慶應義塾であるべきものとしては「独立自尊」という言葉だけでいいのではないかと思っています。

【塾生】
修身要領の内容は儒教的な精神を批判しているようには見えません。どの辺が実学的、福沢諭吉的なのか教えてください。
【米山さん】
ひとつは、独立自尊主義と儒教主義との対比ということになるでしょう。修身学が福沢諭吉にとって大きな位置を占めるというのは、修身学が基本的には人間関係学だからです。個人からスタートして家庭、社会、国民というように、徐々に同心円的に広がって国家の問題にたどり着いていくという構造なのだと思います。

 

 

編集後記

 

福澤の思想の源流とも言える「独立自尊」という言葉。その定義付けをしている『修身要領』が「誰に向けて書かれたものか」という事前課題に向き合った上で、モラルコードを成文化する妥当性を問うという視点を持つことによって、当時の時代背景や福澤の感じていた思いが、より立体的に感じられたように思う。

 

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