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福沢文明塾 コア・プログラム講義録

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第12期 コア・プログラム
ベーシック・ナレッジ
「日本人の死生観とお寺の未来」

講師:松本 紹圭
(浄土真宗本願寺派光明寺僧侶、一般社団法人お寺の未来代表理事)
インタビュアー:前野 隆司(福澤文明塾 プログラム・コーディネーター、慶應義塾大学大学院システムデザインマネジメント研究科委員長 教授)
ライター:永井 祐子
セッション開催日:2014年11月8日

日本人にとって身近な存在だったはずのお寺や仏教だが、最近は「葬式仏教」と揶揄されるなど、その存在意義を問われることも多い。そんな中、在家出身で東大哲学科卒の僧侶という珍しい経歴を持つ松本さんは、宗派にとらわれないお寺の改革に挑んでいる。松本さんが目指すこれからの時代にふさわしいお寺のあり方とはどんなものなのだろうか。

 

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お寺を変えるため、赤門から仏門へ


 松本さんが新卒で寺の門を叩き、この道に入ったのは13年前のこと。「お坊さんになってお寺を変えたい」という思いを実現するためだ。祖父が寺の住職という環境ではあったが、跡継ぎではなかった。「いわば寺の外孫ですね。祖父の寺に出入りすることはありましたが、自分は普通に企業に就職するものと思っていました」。
 幼い頃から哲学や思想に関心があったが、高校生の頃にオウム真理教の事件を見て、「日本にはこんなにたくさんお寺があるのに、宗教としては、自分の人生を考える場として機能していないのではないか」という疑問を抱くようになった。「自分なりに仏教の本などを読んで勉強していたので、お寺はもっと本来の仏教を伝える力を持つべきだと思うようになりました」。
 就職を考える時点で自らの関心がお寺関係にあったことに加え、東大のクラスメートに小池龍之介氏がいたことも影響して、お寺の世界に飛び込むことを決意する。親戚の寺ではなく、あえて何のゆかりもない東京の光明寺に弟子入りする道を選んだのは、「先が分からない方がロマンを感じる」という理由からだ。そして、「お寺を変えたい」という思いを実現するため、光明寺で次々と斬新な試みを実践していく。
 たとえばお寺カフェ。東京の神谷町にある光明寺は人通りの多い道に面しているが、檀家以外の人が入ってくることはなかった。そもそも現代の日本人には、法事やお墓参り、あるいは観光で行く場合を除いて、ふらっとお寺に寄っていくという生活習慣自体がないからだ。そこで、お寺の中に気軽に入れる場としてカフェをオープンした。「従来お寺はコミュニティとしての役割も持っていたはず」という発想に基づくものだ。
狙いは見事に当たり、この「寺カフェ」にはたくさんの人が訪れるようになった。インターネットの活用にも乗り出し、様々な宗派の僧侶仲間たちと共に「彼岸ネット」というサイトを立ち上げたり、「座禅アプリ」を公開したりしている。

 

 

変革を広げるための方法論を学び、MBAを取得


こうした活動を始めて5,6年経った頃、「どんなにここでがんばっても点にすぎない。全国で7万5000もあるお寺の住職が力を合わせて何かアクションを起こせば、すごいことになるはず。全国に散らばる点を面にするにはどうしたらいいのか」と考えるようになった。matsumoto_2.jpg
 「日本中のお寺がコンビニのように同じではつまらない。それぞれの寺の個性や強みを活かしてユニークな活動を起こしていくためには、方法論が必要」と思い至った松本さんは、Indian School of Businessに留学することを決意する。妻子と共にインドへ渡り、戦略とマーケティングを学んでMBAを取得。帰国後は、僧侶のための学びの場である「未来の住職塾」を開設した。
「未来の住職塾」では、さまざまな宗派の僧侶が集まり、学びながら寺の戦略を考え、最終的には「寺業計画書」を作成する。講師を務める松本さんは、毎年年間2000~3000人の僧侶との出会いを続けている。現在、松本さん自身は住職としての自分の寺を持たず、それぞれのお寺をどう運営していくかという部分で全国のお寺と関わる立場にいる。つまり、寺から給与をもらうのではなく、「お寺の未来」という法人を営んでいるのだ。

 

 

先祖を尊ぶ気持ちの受け皿としての役割


松本さんにとってお寺とは「生きている意味を問い、生きているという経験を取り戻すための舞台装置」なのだという。
たとえば、海外に行ったときに「宗教は何か?」と尋ねられることがある。「そこで聞かれているのは、その人が持っている人生観や死生観です。つまり、生きるとはどういうことなのか、死とは何なのかというような問い自体を持っていない人は、信用ならないということなのだと思います」。
日本人は、葬式や法事は仏教式でやるけれど自分自身は無宗教だと考えている人も多い。しかし、特定の宗教に身を捧げている、宗教組織に属しているというわけではなくても、無意識に、神道式な世界観やアミニズム、自然を大切にするという感覚を持っていることも多いと、松本さんは感じている。
そもそも日本人は、欧米の人たちなどに比べるとお墓や死者を特に大事にする傾向があり、その背景には「先祖教」ともいうべきものが存在するのだという。「先祖教という宗教があるわけではなく、死者を大切にする、ご先祖様に守られているという感覚です。家の墓を大切にするのが仏教だと思われがちですが、実は仏教には墓を守れという教えはありません。日本人が先祖を大切にする気持ちの受け皿となって形を与えたのが仏教、日本のお寺文化なのではないかと思います」。matsumoto_3.jpg
 他者の死は、死んだ者と自分との交流の断絶を意味する。それは自分の一部の喪失であり、自らの位置を不安定にさせる。「死」にまつわる日本語の表現には、「逝く」「亡くなる」「旅立つ」「みまかる」「隠れる」「他界する」「往生する」など、他界移住を指しているものが非常に多い。自分の世界を揺るがす大きな出来事である他者の死を、「あちらに行っただけで、どこかにはいる」と信じたい思いの表れとも言える。
そして、故人を偲んで何かをしてあげたいという気持ちを形にしたのが供養なのである。「生きているときに誕生日をお祝いするように、亡くなった日を命日として偲ぶ。それがパッケージ化された一連の儀式として、法事が成り立っているのだと思います」。
現代の日本においてのお寺は、仏教を説くことで「生きている人がいかに生きるか」という部分で役立ってくるものではある。しかし、故人に対する安心を支えるという機能をずっと担ってきたため、先祖教としての側面もまた、現代のお寺にとっては重要な営みなのだ。「先祖教の部分でお寺が担っている究極の役割は、故人を記憶するということなのだと思います。法事などを行うことによって、記憶し続け、死者との関係を持ち続ける媒介として、お寺が存在しているということなのでしょう」。

 

 

目には見えない縁が繋がって、今自分がここにいる


今回のセッションに臨むに当たり、塾生には「今、あなたの歩むべき<道>は何ですか?」という事前課題が出されていた。「道を問うということは、道という言葉をどう捉えるかということ自体に、自分自身の生死(しょうじ)をどう見ているかということが反映されているのです」。
塾生の回答には、道を「今この瞬間」と捉える人もいれば、「生まれてから死ぬまで」と考える人もいた。「生死を問うということは、<自分は誰か>を問うことです。そして、それは宗教にとって究極の問いではないかと考えています」。
 この問いへの答えと関連して紹介されたのが、縁起という考え方だ。縁起とは因縁生起という言葉が略されたもので、仏教の根本的な考え方である。「因縁とは全ての結果には原因があるという非常に合理的な考え方です。すぐに分かる直接的な原因を因とするなら、目に見えない間接的な原因を縁と呼ぶのです」。
人生に起こる様々なことは、いろいろな縁が重なり合って起きている。「自分で決めた道を絶対にやり抜くというのは、尊い意思だと思います。でも、もしそれができなくても、決してダメなのだとは思わないで欲しいのです。人生は目に見えるものだけで組み立てられるものではありません。思い通りに行かないこともたくさんあります。こうあらねばならないと決めると、それ以外の目に見えない思いがけない縁を全部切り落としてしまうかもしれない。想像もしなかったような道が開かれる可能性を閉ざしてしまっているかもしれない。ですから、世の中は縁の連鎖で、よほどの縁があって今があるのであり、自分は今、いろいろなものの繋がりの中にいるのだと知ることも大事だと思うのです」。
「道心の中に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし」。これは松本さんが大事にしている最澄の言葉だ。道を修めようと一生懸命やっている結果として衣食住が得られるのであって、衣食住を求めるためにはどちらの道がいいかなどと考えてはいけないという意味を持つ。「食べなければ死んでしまうではないか」と問われたダライラマは、「人は食べるために生まれてきたのではない」と答えたという。「まさにその通りだと思います。何のために道を歩んでいるのかということを、私は常に問い続けたいと思います」。

 

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質疑応答


【塾生】
煩悩に対して、どのように対処していますか?
【松本さん】
日常の些細なことで腹が立つことはありますが、カッとしたときに全部を持って行かれないというのは仏教に触れている影響があるのかもしれません。煩悩を押さえ込もうとしてもおそらくうまくいかないので、起こっていることを自覚する。自分の怒り自体を客観視するということです。もし、自分自身が煩悩に乗っ取られてしまう状況になったとしても、それをまたどこかで見ている自分というものを持ち続けられればいいのかなと思います。そういう意味では、念仏を唱えるというのも、日常的なハンディメディテ-ションとなり得るかもしれませんね。

【塾生】
お墓の管理が問題になるケースが増えていますが、それは日本の先祖教、死生観の変化とどう関係があると感じていますか?
【松本さん】
背景には、それを支えている家という存在の地盤が崩れてきていることがあります。家のお墓を大事にするということは、先祖と繋がりを持ち続けることで自分の今の立ち位置を確かめたいという気持ちがあるのだと思います。脈々と縦糸のように続く家の中に自分の存在があるということが確かな安心感を与え、そのための装置としての墓があるのだとも言えるでしょう。最近は、気の合う友人などと自分の代だけ入るお墓を決め、「墓友」として死ぬ前からコミュニティ活動をするという例も見られます。家そのものへの意識が崩れてきてそこから安心感を得られなくなった今は、家が担ってきた縦糸としての役割を横糸に置き換えて、別のものに模索していく動きが出てきているのかもしれません。matsumoto_5.jpg

【塾生】
お寺を変えたいという松本さんが描く、日本の未来のお寺とはどんなイメージですか?
【松本さん】
ひとくくりにするのではなく、いろんなお寺が出てくるといいと思います。今後お寺の数は確実に減っていくでしょうし、今は家業のような形で法事を行っているお寺が多いですが、それが求められなくなってくると、忘れられた存在になっていくのかもしれません。その中で、お寺を守る=お坊さんの生活を守るということではなくて、地域社会の資源として守っていくことが大事なのだと思います。それをお坊さんが邪魔するようなことがあってはなりません。お寺も仏教もお坊さんのものではないからです。神主がいなくても地域の人が守っている神社が日本中にたくさんあるように、「お寺の神社化」が進んでいくのかもしれません。仏教はひとつのツールであって、人それぞれが自分自身の生きている意味を取り戻していけるように、各自が役立てていけばいいものなのです。だから、みんなのものとしていくことが必要だと感じています。私は縁の力を信じているので、そういう流れが良い形で進むような道筋を作りたいというのが、今の活動につながっています。

 


編集後記


キャンパスを離れ、光明寺のお堂で行われたこの日のセッション。「仏様に見守られている」という空間で心を落ち着けて耳を傾け、日常とは違う敬虔な思いに満たされるひとときを体験した。お寺の存在意義を考えることが問いかける、自分自身の死生観や生きる意味。すぐに答えは見つからなくても、心の奥底に何かの種が蒔かれたように感じられた。

 

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