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福沢文明塾 コア・プログラム講義録

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第11期 コア・プログラム
特別セッション
江戸千家を訪ねて - 都会の真ん中に息づく伝統 非日常の空間で感じた幸福論とは -

講師:川上 宗雪
(茶の湯 江戸千家 家元)
ライター:永井 祐子
セッション開催日:2014年6月14日

特別セッションとなる今回は、東京池之端の江戸千家を訪問して開催された。キャンパスとはまったく異なる茶室という特別な空間において、茶の湯の心に触れる機会をいただきながら、今期のテーマである「幸福」について考える、特別な時間となった。

 

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格子戸をくぐると一変する独特の空気感


 この日訪れた江戸千家は、東京は上野の不忍池に程近い場所にある。まわりに建ち並ぶビルや住宅に埋もれるかのように、ひっそりと建っている日本家屋だ。最寄り駅から徒歩で10分弱、都会の街並に突然現れた年季の入った木の門構え。やや緊張しながら格子戸をくぐり一歩敷地の中に入ると、そこはまさに別世界だった。kawakamni_2.jpg
 小さな前庭には木々の新緑があふれ、地面には苔が広がる。茶室へと誘う露地の飛び石は、丁寧に水を打たれてつややかに光っている。梅雨の晴れ間の蒸し暑い日であったが、体感温度がグンと下がるようなひんやりとした空気に、汗ばんだ肌も乾いていく。
 建物に入っても同様に、直射日光の差さない室内は涼やかな空気で満たされている。四方八方の簾戸からは心地よい風が入り、開け放した戸からは庭の緑が目に優しい。そんな視覚的効果も涼感を演出しているのだろう。ここでは一部の部屋をのぞき、一年中クーラーなしの生活なのだというのも納得できる。
 部屋に座って静かに庭を眺めていると、ここが都会の真ん中であることを忘れてしまいそうだ。すぐ近くでビルの新築工事が行われていたのだが、次第にそうした騒音も耳に入らなくなり、静寂の世界に引き込まれていく。
 木材や土壁など自然の建材に囲まれた空間が心を落ち着かせるのだというが、確かにコンクリートなどの新建材の室内にいるのとは何かが違う。息が楽になって、深呼吸したくなるような不思議な感覚。この日はそれほど広くない空間に多くの人数が押しかけているにも関わらず、ここでは息苦しさを感じなかった。
 おそらく、現代の都会での日々の生活は、生命体にとってはどこか不自然なものがあるのだろう。この空間がもたらす心の安らぎには、そうした自然の息吹に包まれていることにも大きな要因がありそうだ。

 


身体を動かし、所作の基本を学ぶ


 狭い茶室を少人数ずつに分かれて見学させていただくスケジュールだったため、待ち時間には家元直々の体操のレクチャーを受けるという、貴重な体験もさせていただいた。普段のお稽古でも導入されているというこの体操は、通常のお茶の稽古だけでは姿勢がよくならないということで、体操、水泳、剣道などの運動に日本の礼法や座禅、太極拳、ヨガなどの経験を加味して、家元が独自にまとめあげたものだ。『体操十種』としてDVDも販売されているという。kawakamni_3.jpg
 この日は、その中からおじぎの仕方、立ち方、座り方などを教えていただいた。いずれの動きも、慌てず、急がず、ゆっくりするのが動作の基本。たとえば、おじぎは呼吸でする。反動を使わず、吐く息と共に頭を下げ、吸う息と共に頭を上げる。ポイントは、頭を下げたところで気持ちを切らさぬよう、頭を上げて再び目を合わせるまで、相手への気持ちをつなぎ続けることなのだという。何気ないことだが、こうした気の配り方ひとつで所作の印象は大きく変わるから不思議だ。
 そのほか、力士の四股や土俵入りのような動作の体操にも挑戦。こうした動作によって股関節を柔らかくすることは、健康によいと共に姿勢の改善にもつながるのだという。
 「頭で理解するだけではダメで、身につけるためには練習が大事です。身体で覚えたものはなくなりません。身体が柔らかくなると、ものの考え方も柔らかくなるし、姿勢がよくなると美しく見えますよ」。
 そうおっしゃる家元は、確かに座り姿も立ち姿も、そして後ろ姿も美しい。こうした体操を続けることで、点前や日常の基本的な姿勢や動き、間の取り方なども改善でき、本来のお茶の作法にも役立つのだという。中でも、足がしびれたときの正座からの立ち上がり方などの実践的なノウハウは、さっそくこの後のお茶の時間に役立つことになった。

 

 

お酒と食事で歓談するのも茶席の一部


 身体を動かし少し汗をかいた後には、なんと日本酒とおつまみが振る舞われた。お茶ではなくお酒とは意表を突かれた感じだが、実はかつての茶席では、食事とお酒をたしなみながら和やかに歓談した後に、お茶をいただいて気を引き締めるというのが、茶席の本来の流れなのだったという。
「なぜか明治期以降、後半のお茶の部分だけが残った形で広まってしまったのです」
 そう語る家元は少し残念そうだ。茶席本来の楽しみ方を、塾生たちが少しでも体験できるようにという計らいをありがたくお受けしながら、そこからしばし歓談タイムとなった。
 打ち解けたムードに誘われるように、塾生からはざっくばらんな質問が続く。ニコニコとしながら、ときに冗談も交えつつそのすべてに丁寧に答える家元には、近寄りがたいイメージはまったくない。「茶とは決して堅苦しいものではなく、そのよさを理解してほしい」との願いが伝わってくるようだ。
 そもそもお茶というのは、人を呼んでもてなすことが基本だと聞く。「一番大事にしているものはなんですか?」という塾生の質問に対し、家元は「人との接触」と答えた。「自分が呼んでもてなしたときも、相手に呼ばれてもてなされたときも、あの人といい時間を持てたなという思いが一番だと思いますね」。

 

 

狭い空間で感じる独特の空気観


 kawakamni_4.jpgその後、東京都の有形文化指定剤にもなっている、寄付(よりつき)と呼ばれる待合用のスペースや一円庵(いちえんあん)、および蓮華庵(れんげあん)というふたつの小間の茶室を見せていただく。蓮華庵に入る際には、用意された草履を履いて、いったん「露地」と呼ばれる中庭を通り、「にじり」という小さな入口から腰をかがめて入室した。
 自分のものではない履き物に履き替えたり、不自然なほど小さな入口をくぐったりするのは、茶室という特別な空間に入ることを意識させるための演出とも言われている。いざ自分で這うようにしてにじりを通ってみると、天下の秀吉も刀を抜いてこのような姿勢で入っていったのかと、神妙な気持ちになった。
 部屋の中は天井も低く、ほんの2,3畳ほどの非常に狭い空間だ。そこに4,5名が入室しているのだが、不思議と窮屈とは感じられない。事実、正式な茶会でもその程度の人口密度が標準的だという。
 茶の席では、もてなす側の亭主ともてなされる側の客との距離感が大事なのだそうだ。実際にその狭い空間に座ってみると、互いの空気を共有するかのようなこの絶妙な距離が、独特の世界を創り出していくのだと感じられる。

 

 

あるがままを引き立たせる小さな工夫

 

kawakamni_5.jpg この蓮華庵には、現在も電気による照明設備が一切ない。この日は明るい時間帯の訪問であったが、茶席はときに夜に設けられることもあるそうだ。夜の茶会では燭台や行灯などが照明として用いられるが、真っ暗な中でろうそくの火がゆらめく様子が美しさを醸し出すのだという。飾られる花も、薄闇では赤や紫の色では沈んでしまいがちなので、白い花が選ばれることが多いそうだ。
 つまり、そのときどきの状況をありのままに受け入れた上で、最大限の演出をするということだ。心地よいもてなしの場を作るため、数々の小さな工夫が重ねられているという事実に、改めて伝統文化の奥深さを知る思いがした。
「冬には、炉の炭が赤くなる様や、立ち上る湯気の白さが、それはそれは幻想的なんですよ」と語ってくださった家元の奥さま。真冬のしんと冷えた空気の中で目にするそうした光景は、いかばかりの美しさであろうか。

 

 

掛け軸の意味を知り、世界観を深める


 通常、茶室には「掛け軸」と「花」が飾られている。これは数ある所蔵品の中から、季節やその日の客の好みなどを考慮して、亭主がその日に一番ふさわしいものを選ぶのだという。
 この日蓮華庵に飾られていたのは、富岡鉄斎という明治・大正期の文人画家による陸羽の絵と漢詩が書かれたものだった。また、広間の床の間に飾られていたのは、流祖の川上不白による「無心雲自閑」という書だ。無心で浮かぶ雲のようになりたいという悟りの境地を表わしたものだそうだ。
 そして、広間にはもう一枚、福澤諭吉の書による「大幸似無幸」という書も飾られていた。福澤の書であるというだけでなく、「幸福」をテーマとしている文明塾11期生にとっては、意味深い書である。
 この特別な空間で漢詩や絵の意味を解説していただくと、まるでその世界に心が吸い込まれていくようで、美術館などで見るのとは違う、豊かな想像力がかきたてられる。茶室におけるこうした小道具は、単なる飾りではなく、その「場」の世界観を作るのに大きな役割を果たしているのだということを実感した。

 

 

五感を研ぎ澄ましてお手前をいただく

 

kawakamni_9.jpg 全員が茶室の見学を終えたところで、いよいよお手前をいただく。一同が並んで座る広間に毅然とした面持ちで現れ、無言のまま茶を立て始める家元。先ほどまでの打ち解けた様子とはまったく違って、凜とした圧倒的な存在感が際立つ。気安く声などかけられないようなピンと張り詰めた空気に、塾生たちも思わず居住まいを正し、家元の姿に熱い視線を注ぐ。
 やがて一人ひとりに和菓子とお茶がふるまわれていく。「特に作法などは気にせずおいしく味わって」という言葉をあらかじめいただいていたこともあり、緊張していた塾生たちも、ゆったりした気持ちで味わうことができたようだ。
 葛まんじゅうの上品な甘さが残る口の中に、抹茶のまろやかな苦みが広がる。この特別な空間でいただくお茶の味は、単に味覚だけではなく、庭の緑や苔むす匂い、茶器のざらつきなど、視覚や嗅覚、聴覚、触覚をすべて研ぎ澄ました相乗作用によって、身体にじんわり染みこむかのようだった。

 

 

<ディスカッションタイム>


非日常空間で考える、福澤の幸福感

 

kawakamni_10.jpg セッションの最後には、「大幸似無幸」という福澤の書をどう解釈するかについて語り合う時間がもたれた。「あまりに大きな幸せはむしろ幸せではない」という、いわば「過ぎたるは及ばざるがごとし」のようなものというのが、家元の解釈だ。それに対して塾生からは、さまざまな独自の解釈が挙げられた。

「無幸は大幸である、つまり無欲であるということが大きな幸せである」
「大きな幸せだと感じた時点で目標を失い幸せがなくなる」
「大きな幸せだと感じるならそれは誤解で、過剰なものを感じたら、それを思っている自分自体が誤った方向にいるのだと思う」

 

 続いて、塾生と川上さんとで、この日の感想を語り合う時間がもたれた。

 

【塾生】
気持ちはリラックスして落ち着いているのに、いつの間にかもう終わりになっていました。普段は時間に追われている中で生活しているので、そこから少し放たれたように思います。


【川上さん】
人数が多かったのでむずかしいかと思いましたが、そう感じていただけてよかったです。みなさんは他にはどんなところが気に入りましたか?

 


【塾生】
にじりに入るときに、すごく特別な世界だなと感じました。


【川上さん】
にじりは、誰が何の目的で作ったのかはっきりとは分かっていませんが、お茶室の独特の入り方ですね。別世界に入っていくということを、頭で考えるのではなく身体で感じさせるのです。そもそも、茶室というのは街の中の比較的狭いところに、街とは別世界を作り上げようというものなので、いろいろなからくり、工夫があり、にじりもそのひとつです。前庭で石の上を歩くというのも、幅を狭くして小幅で歩くようにしたものです。外では急いで大股で来ても、あそこではやむを得ず小股でゆっくり歩かざるを得ない、そういう工夫がいろいろあるのです。すべてが、違う世界に誘われていることを身体で体感してもらうための仕掛けですね。

 


【塾生】
お茶、お花、建築など、細部への美意識がちりばめられていること感じました。それらは幸せにつながるような気もする一方で、細部へのこだわりというのは人間を偏屈にする側面もあるのかなとも思います。


【川上さん】
趣味の押しつけというのはありますね。お茶会のやりとりでは、和やかにお客を相手にする一般的なものとは別に、「これが分かるか」という一つの勝負になることもあります。趣味、感性の世界だけじゃない、知的なやりとりや議論の楽しみもあるのです。ただ、何を目的にするかはまったく自由で、単にのんびりと平和な時間を過ごすというお茶もあります。いろいろな人がいるから面白いのであって、「こういう感情を持たれるのだな」とか「こういうことに興味があるのか」など、どんな人が来ても教わることがありますね。

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<編集後記>


和服姿の参加者も多かったこの日の特別セッション。さまざまな点で非日常的な空間で過ごした時間は、新たな気づきを与えてくれる貴重な体験となったことと思う。福澤の書の解釈に正解はない。プログラムを通じて考え続けた「幸福」という視点から、この特別な空間で福澤の思いに寄り添うという試みは、とても意味深いことだったと思う。



【江戸千家とは】


川上不白を流祖とする茶家。京都で表千家の修行を重ねた不白は、紀伊藩の茶頭として江戸で茶道を広めた。七代蓮々斎のときに明治維新と共に茶頭職を離れ紀伊に帰るが、明治1初期に東京に戻り茶家を再興した。当代の家元である川上宗雪氏は第十代となる。

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