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福沢文明塾 コア・プログラム講義録

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第9期 コア・プログラム
ベーシック・ナレッジ
命を変える・命が変わる―死を通して、生と向き合う

講師:戸松 義晴
浄土宗心光院 住職、全日本仏教会 前事務総長
インタビュアー:羽田 功(慶應義塾大学 経済学部 教授)
ライター:永井 祐子
セッション開催日:2013年6月22日

今回のテーマは命。「命について素人のままでは、人の看取り方も自分の死に方もプロ任せになってしまう。先導者たらんと集まってきている塾生に、このテーマを考えて社会にイノベーションを起こして欲しい」という、ある福澤文明塾修了生の企画が実現したものだ。僧侶である戸松さんを講師に迎え、死ぬこと、生きること、そして命について、考える時間となった。

 

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末期患者に「もう死にたい」と言われたら?

 

 寺に生まれ、仏教の大学院で博士課程まで修めた戸松さんは、アメリカに留学し神学の修士号も取得したというユニークな経歴を持つ。現在は、浄土宗心光院の住職を務める傍ら、仏教の布教に留まらない広範囲な社会活動にも積極的に取り組んでいる。高齢者が急増し日本の社会構造が変化していく中で、自分の死に向き合うことは先延ばしにできない問題だと感じているからなのだという。
 戸松さんは、平成24年4月に経産省から公表された「安心と信頼のある『ライフエンディング・ステージ』の創出に向けた普及啓発に関する研究会報告書」をまとめる研究会の委員も務めている。その報告書のデータも引用しながら、日本の高齢化の現状や将来の予測についての話があった後、ある末期がん患者を取材したドキュメンタリー番組のビデオが上映された。年老いた夫の世話を受けているこの女性患者は、これ以上迷惑をかけたくないという思いもあり、「もう死にたい」という言葉を漏らす。「治らないと分かっているのにこんなことを続けて意味があるのか」という問いに、自分ならどう答えるか、意見の交換が行われた。

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【戸松さん】
私自身も、同じように不治の病で苦しむ檀家の方から「早くお迎えが来るようにお経をあげて欲しい」と頼まれたことがあります。そのときは、「あなたが楽になるように仏さまにお願いしてみましょう」と言ってお経をあげましたが、私にはそれ以上答える術がありませんでした。みなさんはどう考えますか?

 

【塾生】
自分の人生をどこで終わらせるのかを自ら決断することは大事だと思います。献身的に世話をしてくれる夫のために生きようと思うのも、自分が辛いから終わらせるのも、自分の決断。医師はそれを促して、どうするのかを聞いていくことが大切なのではないでしょうか。

 

【塾生】
私は、人生は自分だけのものではなく、周囲にいる人と共に育まれるものだと思います。この女性の場合は、寄り添ってくれている夫の気持ちを含めて、生きなくてはいけないのではないでしょうか。

 

【塾生】
4年間介護を続けている祖母がいます。本人は迷惑をかけていると思っているかもしれないけれど、私たちは喜んで面倒をみています。祖母が生きていることが私の精神的支えにもなっているので、本人が早く死にたいと自分から死に向かうことは絶対に許せません。

 

【塾生】
「死にたい」と言われた側の無念さを思うと、大事にしてくれている夫に対して言ってはいけない言葉なのではないかと思いました。

 

死を間近にして、生きる希望とは何か?

 

【戸松さん】
この患者さんが「死にたい」という言葉をわざわざ医者に伝えたのには、どのような思いがあるのでしょうか。「死にたいとは思うけれど、本当は生きたい」という意思表示であるようにも、私には感じられます。自分の死が見えたとき、生きていく希望とはなんなのでしょう? 生きていることの意味、命の意味とはどういうことなのでしょうか?

 

【塾生】
最近祖母にがんの転移が見つかり、治療はしないことを決めた途端、今まで我慢強かった祖母が家族にすごく甘えるようになりました。それを見て私たち家族は、祖母は大切にされているという感覚を味わいたいのだと感じ、それが叶うよう、できることは何でもしてあげたいと思っています.

 

【塾生】
2年前に祖父が亡くなったとき、献身的に介護する両親を見て尊敬の念を抱くと共に、いろいろ話し合うことで、私たち家族の結束が強まったと感じています。人間が死ぬとこういうことがある、自分たちが死ぬときはこうした方がいいなど、祖父に死に様を見せてもらったことはとても勉強になりました。結局は残った人たちがどう生きていくのかということの方が大事だと思うので、死にゆく人は、その死に様を見せるということ自体が、残されたものに大きな体験を与えることになるのではないでしょうか。

 

【戸松さん】
ここで、41歳という若さで早世した流通ジャーナリストの金子哲雄さんのお話をしたいと思います。東京タワーの下で眠りたいという要望を私のお寺でお引き受けすることになり、亡くなる1カ月前からご縁がありました。彼は自らの最期の日々を一冊の本(『僕の死に方エンディングダイアリー500日』)として残すことに、生きる意味を見出しました。その思いに応えるため、奥さんは仕事を辞めて彼を支えました。「彼の思いに寄りそうことだけを考え、世間には不義理もしたけれど、その経験があるから彼の死後も寂しくない」と奥さんは言います。夫のためだと思ってしていたことは、実は自分のためでもあったのだと、彼が亡くなって初めて分かったそうです。

先ほども残される家族の立場のお話がありましたが、いろいろな経験、時間を共有する中で、亡くなった方が残してくれるものが、私たち自身のものとして受け継がれていく。いわば命のバトンタッチということなのかなと、私は感じています。

 

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余命3カ月と仮定して遺書を書いてみる

 

 今回のセッションでは、「自分が余命3カ月だと想定して遺書を書く」という事前課題が出されていた。これについて戸松さんは、「仏教の基本は、生老病死、生まれて年を取り、病気になって死ぬ。つまり死ぬことも含めて生きるということなのです。私は、ぜひこの機会に、みなさんに死を通して生きるということを考えてもらいたいと思いました」と、その意図を明かした。

 

【塾生】
今回の事前課題は、快不快も含めてかなりの瞬間最大風速を巻き起こしたという意味で正解だったと、私は感じています。これだけ経験豊富で多少のことには動じない人たちをそんな不快な思いにさせたというだけでも、相当なことだと思いました。今回のテーマは議論をして答えの出るものではないので、この課題を書くこと、人の遺書を読むこと、そして後は各自で考えるしかないのではないでしょうか。

 

【戸松さん】
遺書というものは真剣に考えれば考えるほど書けないし、そもそも他人に見せるものではありません。こういうものを題材にすべきではないと答えた方もいました。それは私としても重く受け止めたいと思います。

  皆さんの遺書を見せていただいて、普段私が知り得ない多くのことを学ばせていただいたと思います。家族や周りの方に対する強い思いが感じられ、また人生にきちんと向き合っているということを感じました。そういう方たちに対して、おそらく私は何も与えることはできないと思います。今日私がお話しする言葉を書き留めてもみなさんの中には何も残らないでしょう。みなさんがお互いの書いた遺書を読んだり、いろんな方と意見を交わしたり、その関係性の中で何かをつかんでいくということのだと思います。ですから、みなさんの率直な意見をたくさん聞かせてください。

 

【塾生】
死んでいる自分を自分で確認できない以上、僕はそれを信じることができません。誰もが死ぬのだから死と向き合ってみようと言われても、なぜそれを考えなくてはいけないのか、よく分からないです。

 

【塾生】
私は、医療従事者としてたくさんの人の死に直面してきましたが、1000人いれば1000通りの死に方、送り方があるというのが実感です。それを一般化するのはナンセンスだけれども、あえてこういう課題を出されたのは、死ぬことを通して、自分や残されていく人との関わりについて考えることで、残りの人生をどれだけ豊かにしていくかということを、私たちに考えさせようとしたのだと感じています。この課題に対してはいろいろな意見があると思いますが、今後の人生のためになるのだと前向きに考えたいなと思いました。

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死について考えることは、自分の生き方を考える こと

 

【戸松さん】
誰もが、二人称、三人称の死は知っていても、一人称の死は経験していません。経験してもいないことを考えてどうするのかというのはもっともです。ただ、たとえば大学に入るためには試験勉強をするというように、人生は一つひとつを積み上げていくものであり、そして最後は死ぬということは誰でも分かります。死も日常の積み重ねの一部であり特別なものでないとしたら、逆にそのことを考えないでいられるものでしょうか? いかがですか?

 

【塾生】
自分は以前から本物の遺書を書いています。身近な人を難病や交通事故で亡くしたことがきっかけでした。特に事故の場合は何も残せずに死んでしまったので、自殺の疑いも出たりして家族はものすごく苦しみました。自分も相談を受けていたので、もし自殺だったらと思うと罪の意識にさいなまれました。そんな経験から、何も語れずに死ぬのは自分にとっても残された人にとっても辛いことだと実感したので、自分はどう生きたか、どう感謝しているのかを記録しておきたいと思って、遺書を書いています。

 

【塾生】
2年前に人間ドックを受けたとき、乳がんの可能性が非常に高いという診断を受けました。精密検査を受けて結局は違ったのですが、自分は年齢も若いし進行も速いのでは……と、死を近く感じました。そのとき、あれもやってない、これもやってないという思いが強くあったので、その後は「一生懸命生きる」ということを日常的に考えるようになりました。「明日死んだら」「1カ月後に死んだら」と考えて生きる中で、一つひとつの見方や考え方が違ってきて、今回振り返ってみると後悔することはないと思えました。ですから、今回のセッションを機に、「あのときと比べて自分の生き方はどうか?」と何年後かに振り返って確認していくことが、今後のためにも重要なのではないでしょうか。

 

【塾生】
今回は、この文明塾という場で3カ月あまりを共に過ごした仲間といっしょに、このテーマについて考えられたことに、すごく大きな意味があったと思っています。死という大きなイベントに対する自分の心のあり方、それを見据えて自分が今後どう生きていきたいのかということを、信頼頼関係の築けている人たちと共有できたのがとても良い経験になりました。

 

【塾生】
私たち夫婦は、不妊治療を経て今1歳半の子供がいます。不妊治療の現場はまさに生への執着がとても強いところです。せっかく妊娠しても流れてしまって泣いている人もいる中で、わが家の子供は無事に生まれました。その経験から感じるのは、みなさん一人ひとりが今ここに生きているのは奇跡だということです。それを意識すると死も身近になってくるし、みなさん自身の人生のこと、あるいは社会に貢献したいという思いも、もっとハッキリ感じられるのかなと思いました。

 

クロージングメッセージ

正直な思いを正しく伝え、違いを共有する


tomatsu-5.jpg  今日私はここで、正直に自分の思っていることを話しました。それはアメリカに留学していたときに言われた「自分に正直であれ」という教えによるものです。自分が本当におかしいと思ったこと、大事だと思ったことはキッチリ伝えること。自分の思っていることをごまかすと、何を思っているのか自分でも分からなくなると。ハーバードでは徹底的にディベートをしますが、そこで大事なのは、勝ち負けを決めることではなく、それぞれが思っていることを自分なりの理論で正しく相手に伝えられたかどうかです。それによって違いを共有できるのだということを学びました。

  今日、この場においても一人ひとりいろいろな意見がありました。どれが正しいというのではなく、重要なのは違いを共有できることです。私が感心したのは、これだけ個性の強い人たちが集まっていて、それでも同じ方向を向いて思っていることを正直に披露して共有できるとうことです。こういう場を持てるのはすばらしいことだと思いました。ぜひ、この環境を大事にすると共に、今日感じたこと、みなさんで議論して共有した思いを大切にしていってほしいと思います。

 

 

編集後記


  重いテーマではあったが、軽妙な話題を交えた戸松さんの親しみやすい語り口に導かれ、それぞれの体験を元にした本音を語り合える場になったように感じられた。タブーになりがちな「命」についてしっかり向き合い、意見を交換した経験は、一人ひとりのこれからの人生に大きな意味を与えるのではないだろうか。

 

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