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第10期 コア・プログラム
ベーシック・ナレッジ
国を開く音楽 鎖国からグローバル化する日本まで

講師:ヘルマン・ゴチェフスキ
東京大学 比較文化 比較文化教室 准教授
インタビュアー:羽田 功(慶應義塾大学 経済学部 教授)
ライター:永井 祐子
セッション開催日:2013年11月30日

 

グローバル化が進む現代、私たちのまわりには世界中の音楽があふれている。しかし、歴史上閉ざされた環境にあった日本では、古来の伝統音楽が育くまれてきた。そんな日本が近代化を迎え、どのように世界の音楽を迎え入れ、あるいは日本の音楽をどのように世界に伝えてきたのか。日本近代音楽の研究者でもあるゴチェフスキさんにお話を伺った。
西洋人との共作で生まれた「君が代」
「君が代」が日本の国歌として正式に制定されたのは1999年のことだ。「国旗及び国歌に関する法律」には、歌詞と共に単旋律の五線譜も記載されている。昨今さまざまな議論を呼んでいる君が代だが、その論点は主に歌詞が対象となっていることが多い。しかし、音楽研究家であるゴチェフスキさんが注目するのは、旋律や和声(ハーモニー)の特徴、およびその成立過程についてだ。
君が代がいつできたかというのは、「歌」をどう定義するかという問題にも関わってくる。というのも、君が代の歌詞とメロディは別々の時期に作られたものだからだ。
日本で最初に国歌が作られたのは明治2年(1869年)のことになる。それまで鎖国していた日本が開国して外国との交流を進めていくことになり、国を代表する曲を用意する必要が出てきたのだ。
歌詞としては「古今和歌集」に収録されている和歌(最初の文句だけが後の時代で変化)が選ばれ、これに合わせてフェントンというイギリス人が旋律を作った。当時、港にやってきた外国人を迎える際、軍楽隊が双方の国歌を演奏するという習慣があったが、日本ではようやく軍楽隊が成立したばかりの頃で、フェントンはその指導を行う立場にあった。
しかし、この最初の君が代はおおむね不評だったという。最大の問題は、フェントンが日本語をまったく理解していなかったために、歌詞の切れ目が不適切な箇所に入ってしまい、とても歌いにくいということだった。「しかし、当時の日本をあまり知らない外国人としては、フェントンは非常にがんばったと思います。通常ヨーロッパでは国歌のような高尚な曲は七音音階で作りますが、この曲ではあえて日本で古来使われてきた五音音階を使っている点からも、彼なりに日本的な旋律を作ろうと努力したことが感じられます」。
その後10年ほどはこの曲が国歌として使われていたが、やはり歌うには無理があるということで、明治13年(1880年)に改作が行われた。歌詞はそのままで曲を変えることとし、いくつかの候補の中から宮廷の雅楽演奏家の曲が選ばれた。その選定にも関わったドイツ人フランツ・エッケルトにより和声が付けられて完成したのが現在の形だ。「曲という意味では新しい作品ですが、それ以前に同じ歌詞で歌われていた曲があったことを考えると、同じ歌のメロディを変えただけともいえます。日本人は特に歌詞を重んじる傾向があるので、どちらも同じ『君が代』だと感じる人も多かったいかもしれません」。
最初の君が代が作られた明治2年から、改作が行われた明治13年までの10年余の間には、西洋音楽が多数入って来ており、日本の音楽文化にも大きな変化が起きていた。雅楽を専門としていた宮廷の音楽家たちも西洋音楽の勉強を始めており、新しい雅楽の作曲活動も盛んになっていた。この改作の君が代にも、当時の新しい雅楽に多く使われていた壱越調律旋という音階が使用されている。
この君が代の旋律は新たに作ったものではあるが、フェントン版を踏襲している部分も見られるとゴチェフスキさんは指摘する。「4つのゆっくりとした音符が続くフレーズが多いという特徴は共通しています。歌詞の切れ目と一致している部分はそのまま使っている箇所も残っており、ある程度はフェントンのメロディを参考にしたものだと考えられます」。
雅楽の専門家が西洋の音楽も勉強して作ったこの作品は、日本の近代化を象徴しているともいえる。「君が代は、まさに日本の伝統を保ちながら西洋音楽を取り入れた歌だということができるでしょう」。
西洋音楽との融合から、ぶつかり合いへ
その後、日本で初めて洋楽の作曲家として世界的に有名になった人物が山田耕筰だ。彼が大正12年に作曲した『明治頌歌』は、日本初の本格的な交響曲だといわれている。明治を表題にしたこの交響詩は、江戸時代を表現するところから始まり、黒船の来襲と戸惑う日本人の姿を描いた約20分の曲だ。そのテーマは近代化であり、大正時代以後、明治の改革が進み近代化していく日本の将来像が、穏やかな曲調で明るいものとして描かれている。
注目されるのは最後の明治天皇が崩御するところで、日本の伝統的な楽器である篳篥(ひちりき)が登場していることだ。「明治天皇自身がこの篳篥を演奏する習慣があったからともいわれていますが、西洋的な交響曲に日本の伝統的な楽器が取り入れられたというのは非常に興味深いことだと思います」。
しかし、この曲はドイツやアメリカではあまり評判がよくないようで、今日外国で演奏されることはほとんどないという。「私は大変優れた曲だと思っていますが、一般の西洋人にとっては、なぜ日本人がこのように西洋化した音楽を作るのか理解できないのだと思います。西洋音楽の中で精一杯日本を表現しようとしているけれども、西洋人から見るとこれは日本的な音楽ではないし、曲全体として日本人が無理をしているという中途半端な印象はぬぐえません」。
一方、昭和初期に世界的に大きな評価を受けたのが、近衛秀磨の編曲による『越天楽(えてんらく)』だ。古くから日本に伝わるこの雅楽を、雅楽研究家だった弟の近衛直麿が五線譜化し、それを作曲家であり指揮者でもあった秀磨がオーケストラの曲として編曲した。当時、雅楽を演奏できる奏者は外国にはおらず、国内の奏者は宮廷の仕事があるため国外に出かけて演奏するのはむずかしい。そこで、オーケストラ版が作成されたわけだが、これを聴いた世界の作曲家たちは、新しい音楽の道はアジアの音楽にあるとまで賞賛したという。「そこまで好評だった理由のひとつには、この音楽には、当時西洋の最前線にいた作曲家たちが目指していたものと共通するものがあったからだと思います」。
この曲が元々平安時代に中国から来た曲であるという点も、アジアの音楽を代表している、そして1000年も昔の音楽を守ってきているという意味で評価されたのだという。
その後、戦後になって世界で一番話題になった作曲家は武満徹だ。「主に外国で活躍した彼は、ただ西洋を追いかけるだけではなく、自分が最前線に立った作曲家として初めて認められた日本人だといえるでしょう」。
彼が1967年にニューヨークフィルの125周年記念の委嘱作品として作曲した『November Steps』は、西洋音楽の中に琵琶と尺八を登場させたものであった。この曲は外国で非常に大きな反響を呼び、今でも多くの国においてしばしば演奏されている。武満は、この曲によって世界の現代音楽を代表する作曲家のひとりと称されるようになった。
武満自身はこの曲について「日本の楽器と西洋のオーケストラを融合させようとしたのではなく、そのコントラストを表現した」と述べている。「山田耕筰は古いアジア音楽の伝統と西洋から入ってきた音楽を融合しようとしました。同様に和洋音楽の融合による多くの作品を作曲・編曲したことで知られる宮城道雄も、優れた音楽家ではあるものの、私にはかなり中途半端な音楽に聞こえます。そういう音楽が日本の音楽といえるのかという点で、外国ではあまり評価されない傾向があります。その点、武満の場合は、極端に違う種類の音楽をぶつからせており、そこが西洋人にとっては印象深かったのではないでしょうか」。
ディスカッションタイム
このセッションでは下記の事前課題が出されていた。
========================================
もし外国で「日本の歌を歌ってくれないか」、または「日本の音楽を紹介してくれないか」と頼まれたら、どの曲を歌いますか/聴かせますか?
========================================
これに対して寄せられた回答は、まさに千差万別でさまざまな曲名が挙げられた。(一部を抜粋)
『さくらさくら』『上を向いて歩こう』『世界に一つだけの花』『ふるさと』『翼をください』『赤いスイートピー』『秋桜』『小さい秋みつけた』『およげたいやきくん』『どんなときも』『乾杯』『さんぽ』『さとうきび畑』『春よ、来い』『島唄』『若き血』『世界の国からこんにちは』『アンパンマンマーチ』『Train Train』『ラジオ体操の歌』『SAKURA』『兄弟船』『川の流れのように』『TAKIOソーラン節』『大太鼓一本打ち』『Change- Yoshida Brothers×Monkey Majic』
【塾生】
今回の課題への回答として、自分は文部省唱歌や童話、演歌などトラディショナルな曲が思い浮かびましたが、他の方の回答を見ると、J-POPなど最近の曲を挙げた方もたくさんいました。なぜそういう曲を選ばれたのでしょうか?
【塾生】
私は、政治的な背景や国の伝統などは前面に出さない方がいいという判断で、今流行っていて若者が聞くような曲を紹介すれば、無難に話が始められるかなと思いました。
【塾生】
以前、外国の友人から「今の日本の若者はどんな歌が好きなの?」ということを聞かれた経験から、モンキーマジックという、カナダ人を含むJ-POPのグループが英語で歌った歌に、吉田兄弟という津軽三味線がコラボした曲を選びました。J-POPに津軽三味線というのはクールだし、若者の視点で共感を得ることができそうだし、さらに日本について関心を持ってもらえれば、J-POPの方にも津軽三味線の方にも話を広げられるかなと思いました。
【ゴチェフスキさん】
自分が気に入っていつも聞いている曲を挙げるのは良いアイディアだと思います。ただ、みなさんの回答を見ていて感じたのは、大多数が歌詞のついた曲であり、いわゆる器楽曲というものはほとんどありませんでした。それはなぜでしょうか?
【塾生】
自分は演歌を選びました。人間の声も楽器のひとつなので、そのまま歌って教えることができるという意味で、演歌ならすぐに伝えられると思いました。
【塾生】
以前、ネパールの人とプロジェクトをしたときに、歌を交換したことがありました。そのとき、その歌の歌詞の意味を教え合うというところから会話が生まれたので、今回も歌詞付きの曲がいいと思いました。
【塾生】
個人的には、歌詞がない歌は覚えづらいと感じます。歌うことで歌詞とリズムがいっしょになって記憶されて自分のものになるのだと思います。なぜ日本の伝統的な音楽ではないのかという問題は、ほとんどの人にとってそういう音楽を聴く機会はあまりないので、紹介するほど身近ではないというのが一番大きいのではないでしょうか。
【ゴチェフスキさん】
私は日本の楽器に興味があるので、そういう楽器をやっている人と付き合いがあるのですが、たとえば尺八をやっている方は、尺八が好きだからというよりも、健康にいいという理由でやっている方が多いそうです。また、お琴をやっている方も伝統音楽はあまり好きではなくて、現代風や西洋風な曲が好きなようです。私自身は、お琴で古い伝統の曲を演奏しているのを聴くととても感動しますが、そうではない曲を聴くと中途半端に感じてしまいます。せっかく伝統的な楽器をやっているのに、なぜ伝統的な曲はやりたがらないのか不思議ですね。
クロージングメッセージ
「音楽は国境を越える」(Music knows no boundaries)という場合がありますが、音楽が必ずしも自ら無条件で国境を越えることはありません。例えば日本の鎖国が終わって幕末・明治になって、外国から多くの音楽が国境を越えて日本に入ってきました。一方で、日本に従来存在していたいわゆる伝統音楽が同じく国境を越えて外国に伝わったかといえば、僅かにそういう例があったとしても、全体的に見ればほとんど伝わっていないと言っても過言ではないでしょう。
日本の国を世界に開くということは、一方的に外国のものを日本に取り入れるだけでは決して実現できません。世界に開かれた日本を音楽的に表現するには、日本から世界に伝わる音楽が必要です。そのためにはその音楽を世界に伝える意志と方法と人材が必要です。今回は明治・大正・昭和初期・戦後の昭和期という4つの時代に日本から世界に伝わった音楽の事例を取り上げ、それが外国で実際にどのように受容され、日本についてどのようなイメージを人々に与えたかを辿りました。今日なお残されている「日本を世界に開く」という課題を解決するために、平成時代の今、音楽をどのように役立たせていくのか。今後も考えていってもらいたいと思います。
編集後記
君が代の成立事情をはじめ日本人であっても知らないことが多く、新たな発見の多いセッションだった。最近は現代のポップカルチャーが注目されることの多い日本の文化だが、古くから伝わる伝統文化の価値を私たち自身が見つめ直し、世界に伝えていくことの意義を改めて考えてみるきっかけになったように思う。

グローバル化が進む現代、私たちのまわりには世界中の音楽があふれている。しかし、歴史上閉ざされた環境にあった日本では、古来の伝統音楽が育くまれてきた。そんな日本が近代化を迎え、どのように世界の音楽を迎え入れ、あるいは日本の音楽をどのように世界に伝えてきたのか。日本近代音楽の研究者でもあるゴチェフスキさんにお話を伺った。

 

 

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西洋人との共作で生まれた「君が代」

 

「君が代」が日本の国歌として正式に制定されたのは1999年のことだ。「国旗及び国歌に関する法律」には、歌詞と共に単旋律の五線譜も記載されている。昨今さまざまな議論を呼んでいる君が代だが、その論点は主に歌詞が対象となっていることが多い。しかし、音楽研究家であるゴチェフスキさんが注目するのは、旋律や和声(ハーモニー)の特徴、およびその成立過程についてだ。

 

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君が代がいつできたかというのは、「歌」をどう定義するかという問題にも関わってくる。というのも、君が代の歌詞とメロディは別々の時期に作られたものだからだ。日本で最初に国歌が作られたのは明治2年(1869年)のことになる。それまで鎖国していた日本が開国して外国との交流を進めていくことになり、国を代表する曲を用意する必要が出てきたのだ。

歌詞としては「古今和歌集」に収録されている和歌(最初の文句だけが後の時代で変化)が選ばれ、これに合わせてフェントンというイギリス人が旋律を作った。当時、港にやってきた外国人を迎える際、軍楽隊が双方の国歌を演奏するという習慣があったが、日本ではようやく軍楽隊が成立したばかりの頃で、フェントンはその指導を行う立場にあった。

しかし、この最初の君が代はおおむね不評だったという。最大の問題は、フェントンが日本語をまったく理解していなかったために、歌詞の切れ目が不適切な箇所に入ってしまい、とても歌いにくいということだった。「しかし、当時の日本をあまり知らない外国人としては、フェントンは非常にがんばったと思います。通常ヨーロッパでは国歌のような高尚な曲は七音音階で作りますが、この曲ではあえて日本で古来使われてきた五音音階を使っている点からも、彼なりに日本的な旋律を作ろうと努力したことが感じられます」。

その後10年ほどはこの曲が国歌として使われていたが、やはり歌うには無理があるということで、明治13年(1880年)に改作が行われた。歌詞はそのままで曲を変えることとし、いくつかの候補の中から宮廷の雅楽演奏家の曲が選ばれた。その選定にも関わったドイツ人フランツ・エッケルトにより和声が付けられて完成したのが現在の形だ。「曲という意味では新しい作品ですが、それ以前に同じ歌詞で歌われていた曲があったことを考えると、同じ歌のメロディを変えただけともいえます。日本人は特に歌詞を重んじる傾向があるので、どちらも同じ『君が代』だと感じる人も多いかもしれません」。

最初の君が代が作られた明治2年から、改作が行われた明治13年までの10年余の間には、西洋音楽が多数入って来ており、日本の音楽文化にも大きな変化が起きていた。雅楽を専門としていた宮廷の音楽家たちも西洋音楽の勉強を始めており、新しい雅楽の作曲活動も盛んになっていた。この改作の君が代にも、当時の新しい雅楽に多く使われていた壱越調律旋という音階が使用されている。

 

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この君が代の旋律は新たに作ったものではあるが、フェントン版を踏襲している部分も見られるとゴチェフスキさんは指摘する。「4つのゆっくりとした音符が続くフレーズが多いという特徴は共通しています。歌詞の切れ目と一致している部分はそのまま使っている箇所も残っており、ある程度はフェントンのメロディを参考にしたものだと考えられます」。

雅楽の専門家が西洋の音楽も勉強して作ったこの作品は、日本の近代化を象徴しているともいえる。「君が代は、まさに日本の伝統を保ちながら西洋音楽を取り入れた歌だということができるでしょう」。

 

西洋音楽との融合から、ぶつかり合いへ

 

その後、日本で初めて洋楽の作曲家として世界的に有名になった人物が山田耕筰だ。彼が大正12年に作曲した『明治頌歌』は、日本初の本格的な交響曲だといわれている。明治を表題にしたこの交響詩は、江戸時代を表現するところから始まり、黒船の来襲と戸惑う日本人の姿を描いた約20分の曲だ。そのテーマは近代化であり、大正時代以後、明治の改革が進み近代化していく日本の将来像が、穏やかな曲調で明るいものとして描かれている。

注目されるのは最後の明治天皇が崩御するところで、日本の伝統的な楽器である篳篥(ひちりき)が登場していることだ。「明治天皇自身がこの篳篥を演奏する習慣があったからともいわれていますが、西洋的な交響曲に日本の伝統的な楽器が取り入れられたというのは非常に興味深いことだと思います」。

しかし、この曲はドイツやアメリカではあまり評判がよくないようで、今日外国で演奏されることはほとんどないという。「私は大変優れた曲だと思っていますが、一般の西洋人にとっては、なぜ日本人がこのように西洋化した音楽を作るのか理解できないのだと思います。西洋音楽の中で精一杯日本を表現しようとしているけれども、西洋人から見るとこれは日本的な音楽ではないし、曲全体として日本人が無理をしているという中途半端な印象はぬぐえません」。

一方、昭和初期に世界的に大きな評価を受けたのが、近衛秀磨の編曲による『越天楽(えてんらく)』だ。古くから日本に伝わるこの雅楽を、雅楽研究家だった弟の近衛直麿が五線譜化し、それを作曲家であり指揮者でもあった秀磨がオーケストラの曲として編曲した。当時、雅楽を演奏できる奏者は外国にはおらず、国内の奏者は宮廷の仕事があるため国外に出かけて演奏するのはむずかしい。そこで、オーケストラ版が作成されたわけだが、これを聴いた世界の作曲家たちは、新しい音楽の道はアジアの音楽にあるとまで賞賛したという。「そこまで好評だった理由のひとつには、この音楽には、当時西洋の最前線にいた作曲家たちが目指していたものと共通するものがあったからだと思います」。

 

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この曲が元々平安時代に中国から来た曲であるという点も、アジアの音楽を代表している、そして1000年も昔の音楽を守ってきているという意味で評価されたのだという。

その後、戦後になって世界で一番話題になった作曲家は武満徹だ。「主に外国で活躍した彼は、ただ西洋を追いかけるだけではなく、自分が最前線に立った作曲家として初めて認められた日本人だといえるでしょう」。

彼が1967年にニューヨークフィルの125周年記念の委嘱作品として作曲した『November Steps』は、西洋音楽の中に琵琶と尺八を登場させたものであった。この曲は外国で非常に大きな反響を呼び、今でも多くの国においてしばしば演奏されている。武満は、この曲によって世界の現代音楽を代表する作曲家のひとりと称されるようになった。

武満自身はこの曲について「日本の楽器と西洋のオーケストラを融合させようとしたのではなく、そのコントラストを表現した」と述べている。「山田耕筰は古いアジア音楽の伝統と西洋から入ってきた音楽を融合しようとしました。同様に和洋音楽の融合による多くの作品を作曲・編曲したことで知られる宮城道雄も、優れた音楽家ではあるものの、私にはかなり中途半端な音楽に聞こえます。そういう音楽が日本の音楽といえるのかという点で、外国ではあまり評価されない傾向があります。その点、武満の場合は、極端に違う種類の音楽をぶつからせており、そこが西洋人にとっては印象深かったのではないでしょうか」。

 

対話と議論

 

このセッションでは下記の事前課題が出されていた。

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もし外国で「日本の歌を歌ってくれないか」、または「日本の音楽を紹介してくれないか」と頼まれたら、どの曲を歌いますか/聴かせますか?

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これに対して寄せられた回答は、まさに千差万別でさまざまな曲名が挙げられた。(一部を抜粋)

『さくらさくら』『上を向いて歩こう』『世界に一つだけの花』『ふるさと』『翼をください』『赤いスイートピー』『秋桜』『小さい秋みつけた』『およげたいやきくん』『どんなときも』『乾杯』『さんぽ』『さとうきび畑』『春よ、来い』『島唄』『若き血』『世界の国からこんにちは』『アンパンマンマーチ』『Train Train』『ラジオ体操の歌』『SAKURA』『兄弟船』『川の流れのように』『TAKIOソーラン節』『大太鼓一本打ち』『Change- Yoshida Brothers×Monkey Majic』

 

 

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【塾生】

 

今回の課題への回答として、自分は文部省唱歌や童話、演歌などトラディショナルな曲が思い浮かびましたが、他の方の回答を見ると、J-POPなど最近の曲を挙げた方もたくさんいました。なぜそういう曲を選ばれたのでしょうか?

 

【塾生】

私は、政治的な背景や国の伝統などは前面に出さない方がいいという判断で、今流行っていて若者が聞くような曲を紹介すれば、無難に話が始められるかなと思いました。

 

【塾生】

以前、外国の友人から「今の日本の若者はどんな歌が好きなの?」ということを聞かれた経験から、モンキーマジックという、カナダ人を含むJ-POPのグループが英語で歌った歌に、吉田兄弟という津軽三味線がコラボした曲を選びました。J-POPに津軽三味線というのはクールだし、若者の視点で共感を得ることができそうだし、さらに日本について関心を持ってもらえれば、J-POPの方にも津軽三味線の方にも話を広げられるかなと思いました。

 

【ゴチェフスキさん】

自分が気に入っていつも聞いている曲を挙げるのは良いアイディアだと思います。ただ、みなさんの回答を見ていて感じたのは、大多数が歌詞のついた曲であり、いわゆる器楽曲というものはほとんどありませんでした。それはなぜでしょうか?

 

【塾生】

自分は演歌を選びました。人間の声も楽器のひとつなので、そのまま歌って教えることができるという意味で、演歌ならすぐに伝えられると思いました。

 

【塾生】

以前、ネパールの人とプロジェクトをしたときに、歌を交換したことがありました。そのとき、その歌の歌詞の意味を教え合うというところから会話が生まれたので、今回も歌詞付きの曲がいいと思いました。

 

【塾生】

個人的には、歌詞がない歌は覚えづらいと感じます。歌うことで歌詞とリズムがいっしょになって記憶されて自分のものになるのだと思います。なぜ日本の伝統的な音楽ではないのかという問題は、ほとんどの人にとってそういう音楽を聴く機会はあまりないので、紹介するほど身近ではないというのが一番大きいのではないでしょうか。

 

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【ゴチェフスキさん】

私は日本の楽器に興味があるので、そういう楽器をやっている人と付き合いがあるのですが、たとえば尺八をやっている方は、尺八が好きだからというよりも、健康にいいという理由でやっている方が多いそうです。また、お琴をやっている方も伝統音楽はあまり好きではなくて、現代風や西洋風な曲が好きなようです。私自身は、お琴で古い伝統の曲を演奏しているのを聴くととても感動しますが、そうではない曲を聴くと中途半端に感じてしまいます。せっかく伝統的な楽器をやっているのに、なぜ伝統的な曲はやりたがらないのか不思議ですね。

 

クロージングメッセージ

 

「音楽は国境を越える」(Music knows no boundaries)という場合がありますが、音楽が必ずしも自ら無条件で国境を越えることはありません。例えば日本の鎖国が終わって幕末・明治になって、外国から多くの音楽が国境を越えて日本に入ってきました。一方で、日本に従来存在していたいわゆる伝統音楽が同じく国境を越えて外国に伝わったかといえば、僅かにそういう例があったとしても、全体的に見ればほとんど伝わっていないと言っても過言ではないでしょう。

 

日本の国を世界に開くということは、一方的に外国のものを日本に取り入れるだけでは決して実現できません。世界に開かれた日本を音楽的に表現するには、日本から世界に伝わる音楽が必要です。そのためにはその音楽を世界に伝える意志と方法と人材が必要です。今回は明治・大正・昭和初期・戦後の昭和期という4つの時代に日本から世界に伝わった音楽の事例を取り上げ、それが外国で実際にどのように受容され、日本についてどのようなイメージを人々に与えたかを辿りました。今日なお残されている「日本を世界に開く」という課題を解決するために、平成時代の今、音楽をどのように役立たせていくのか。今後も考えていってもらいたいと思います。

 

 

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編集後記

 

君が代の成立事情をはじめ日本人であっても知らないことが多く、新たな発見の多いセッションだった。最近は現代のポップカルチャーが注目されることの多い日本の文化だが、古くから伝わる伝統文化の価値を私たち自身が見つめ直し、世界に伝えていくことの意義を改めて考えてみるきっかけになったように思う。

 

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