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第9期 コア・プログラム
ベーシック・ナレッジ
心を変える・心が変わる-茶の湯から見た過去・現在・未来と変わらないもの

講師:上田 宗冏
上田宗箇流 家元
インタビュアー:羽田 功(慶應義塾大学経済学部教授)
ライター:永井 祐子
セッション開催日:2013年6月6日

今回の講師にお招きした上田宗冏さんは、戦国武将を流祖とする上田宗箇流の16代家元である。戦国の世に生まれた茶の湯が、時を経て今の世に伝えるその心とは何だろうか。事前課題とされた岡倉天心の著作『茶の本』の内容に沿いながら、お話を伺った。

 

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「人は無限に成長していく」という禅の精神を受け継ぐ


 『茶の本』でも触れられているように、茶の湯は禅の礼法から発展して生まれたものだ。鎌倉時代初期に南宋からもたらされた禅は、この時代に初めて支配階級となった武士のリーダーたちによって支持された。「日常の繰り返しが人間を成長させるという禅の教えは、毎日汗を流して土地を耕し、いざというときは体を張って守るという半農半武の生活を送っていた武士たちにとって、これ以上なくピッタリと来るものでした。また、現在がすべてで過去のことは問わないという考え方も、新興の武家には新鮮に受け入れられたのでしょう」。
 その後室町時代に文化として花開いていった禅は、完成そのものではなく完成に至る過程が重要だと説いた。人間は完成されたと思ってもそれは一瞬のことであり、すぐにまた意識が戻ってくる。その繰り返しが人間を常に成長させるのであり、人生に完成はないという考え方だ。
 こうした精神は当時の文化にも影響を与えた。茶の湯と同様、能もまたこの頃に完成した文化だが、その大成者である世阿弥は、「初心忘るべからず」という言葉を残している。著書『花鏡』の中で触れられているのは以下の三つの初心だ。能役者を花にたとえ、若い頃に無我夢中で演じる一瞬の花が「是非の初心」、30代40代になってもなお創意工夫を重ねて演じる花が「時時の初心」、そして、老年になり、その人が舞台に上がるだけで古木に花が咲いたように感じられるのが「老の初心」である。すなわち、繰り返しには常に無限の成長があり、人は死ぬまで成長していくのだという、まさに禅の教えに通じる考え方だ。

 

余白の美を求める日本人の美意識


 茶の湯においては、侘び茶の祖と呼ばれる村田珠光が「月も雲間なきにはいやにて候」という言葉を残している。これは、まん丸く見える月は100点満点で確かに美しいが、しかしその月に少し雲がかかっていると、「あの雲をはずしたらどんなに美しいだろう」と見る人が想像することによって無限の美しさとなる。そこには、余白の美、空の美ともいうべき新しい美意識が生まれるのだ。
 また、村田珠光が弟子の古市播磨に宛てた手紙の中に「心の師とせざれ心の師とはなれ」という有名な一節がある。これは、自分の心というのはくるくると変わって御しがたいものであるから信じてはいけない、常にもう1人の自分を持って自己を超越していかないと本当のものは見えないという意味であり、これもまた禅の世界に通じるものだ。
 「こうした美意識は、連歌、能、茶の世界に共通するものであり、それを思想として支えたのが中世における禅なのです。村田珠光は茶の湯に初めて心の問題を取り入れた人であり、その思想の根底にあるのは、侘び茶とは心の充足を求める道であるという考えでした。そして、それは今も変わらず、茶の湯の世界に続いているものだと思います」。
 お茶席に入ったときは、もてなす人ももてなされる人も、心の充足を求めて貴重なひとときを共有しようとする。そのためには、五感を研ぎ澄ませて自分のできる限りの最大限の美を追究しようというのだ。
 そうした茶の湯の世界には、たとえばこの上なく美しい青磁の茶碗も良いが、そうではない100点満点ではない器で飲む茶にも無限の味わいを感じるという、とても高度な美意識がある。これは、まさに村田珠光が「月も雲間なきにはいやにて候」とあらわしたような想像の美、余白の美だ。「日本の美意識が世界でも有数だと言われる所以はこういうところにあるのではないでしょうか」。

 

日本人の美意識を投影する茶室の変遷

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 このような美意識を投影するために作られた空間が、茶室やその庭である。ここで、その茶室の変遷をたどってみる。最古の茶室は、足利義政が母のために建てた慈照寺の東求堂にある同仁斎だと言われている。今も昔も茶室の原型は四畳半となっているが、これは村田珠光が維摩経という中国の故事に倣って初めて作ったものだ。
 その後、村田珠光の精神を受け継いだ武野紹鴎が、庭の中にもうひとつの庭、すなわち露地を作った。広い庭にぽつんとある茶室は、どこからでも入って行くことができ、世間と遮断することがむずかしい。そこで、外界との区切りをつけ茶室へ誘うものとして、露地を設けたのだ。露地は当時「路地」という文字が使われていたように、まさに路地裏とも言うべき細い道だ。「ほんの2、3坪の露地を通って行くと、狭い場所に目が慣れてしまうので、四畳半の茶室がとても広く感じられるのでしょうね」。
 茶室の壁を砂壁にしたのも武野紹鴎だ。「壁に土を用いたことで花が美しくひきたつようになり、茶室に花が登場しました。さらに侘びた砂壁には完璧な青磁の花入れや茶碗よりも、備前や信楽などの柔らかい焼き物の方が引き立つなど、使う道具も一変しました。土壁にしたことは、こうした大きな変化をもたらしたのです」。
 また、武野紹鴎は、主人と客がひとつの空間に入ってお互いの役割を演じ、美的な一致を求める空間として茶室を捉え、どういう空間にすれば2人の距離感がひとつになっていけるだろうかという挑戦を重ねていた。そして、通常は四畳半である茶室を、三畳半、三畳、最後は二畳半にまで狭めていった。それをさらに追求し、二畳そして一畳半の茶室を造ったのが、武野紹鴎の弟子にあたる千利休である
 「客と主人が座ったときに、お互いに認め合うには両者の間に1m位の距離感があるというのがとても重要なことです。二畳というとその距離は1m以内になり、お互いに抱き合っているようなものです。その状態で何時間も過ごすというのは大変厳しいものがあります。しかし、利休はさらにそれを一畳半にまでしようとしたのです」。しかし、さすがにこれは狭すぎて窮屈だということで、利休の死後、弟子の古田織部を中心として、再び茶室も露地も広がっていった。

 

30年かけて桃山の茶室を再現し、分かったこと


 その利休や織部の門下にあたるのが、初代家元の上田宗箇である。秀吉に仕え、武勇で名をはせた武将でもあった彼は、後に広島の地に移り住み、広島城内に自分の屋敷と茶室を造り、茶の湯の道を究めていった。この屋敷には、明治4年に12代が城外へ移り住むまでの260年以上の間、代々の上田家が住んでいた。昭和になり、広島は原爆で壊滅的な被害を受け、上田さんも祖父と父を失った。
 戦後は奇跡的に残った母の実家である上田家に移り、4歳のときから茶に親しんだ上田さんだったが、慶應義塾大学を卒業後は、銀行に就職している。「茶道の歴史の重大さは感じていましたが、当時は、広島という街を本拠にしてやっていくのは無理だろうという思いもありました」。しかし、8年後の31歳のとき、退職して上田家に戻り、広島城内にあった屋敷や茶室を再現することを決意する。
ueda_3.jpg 江戸時代から残っていた詳細な平面図や姿図を元に30年かけて進められたこの試みは、2007年、ついに上田宗箇が造営した広島城内上田家上屋敷の構成(書院屋敷、書院庭園、廊橋、茶寮和風堂 鎖の間・次の間)を忠実に再現するに至った。
 ここには、とても特徴的なもののひとつである、わずか16.5坪の外露地も再現されている。一気に外界と遮断するこの外露地を始め、桃山の空間を再現するこの屋敷には、専門家も多数見学に訪れ、その空間の持っている空気を体感して感動するという。
 「都市が壊滅すると文化も壊滅すると言われ、原爆で破壊されたこの街で、果たして文化的なことが再現可能なのかという不安もありました。しかし、きちんとした資料や記録、そして実際に自分自身がそういう空気を体感できる中で育っていれば、歴史の空白は埋められるのだということを実感しました」。
 完成後、書院から廊下を隔てた茶室を見たとき、この茶室の空間は現世に浄土を作ろうとしたものなのだと感じたという。「図面を見ているだけでは分かりませんでしたが、この空間を体感して、初めてそのことに気がつきました。それ以来、毎日ここを通るたびにそういう思いを感じています」。

 『茶の本』には、新渡戸稲造は『武士道』で死の術を教える、茶の湯は生きる術を教えると書かれた部分がある。武士道と茶の湯は同時期に形成されたものであり、上田宗箇は桃山の武装茶人だ。彼が大阪夏の陣で実際に使った一番槍と言われるものも現存している。そのような武人がどうして茶の湯の道に親しんだのだろうか。
 上田宗箇の残した言葉に「茶における楽しむところは、清静にあり」というものがある。「私がいつも思うのは、人を引っ張っていくには奥に静けさがないとダメだということです。静けさがあれば自分自身にも目が行きます。リーダーほど攻撃的になりやすいものですが、自分に目が行くことで、攻撃的なときには見えないものが見えてくるものです。ですから、静けさのないリーダーは続かないと思うのです。そういう清々しい空間、それが上田宗箇にとっては茶の湯だったのではないでしょうか」。

 

質疑応答


ueda_4.jpg【塾生】
能の世界での花と、茶道の世界での花とはどんな違いがあるのでしょうか?


【上田さん】
能の世界では、能役者のことを花にたとえますが、茶の湯の花は、花そのものです。仏壇の横に添えられる立花や生け花と違って、茶室に入り簾をあげるとそこに現れるまさにご本尊のようなものです。それを見て「ああ、花が生きている」と思う。それは、自分が生きていると実感することと同じで、その一瞬を大事にして、その積み重ねが人を永遠に成長させていくのだということです。

 

 

【塾生】
上田さんにとって、茶道の魅力を一言でいうとどういうことでしょう?


【上田さん】
自分の心の充足を求めてそれを実感することでしょうか。茶の湯というのは、花を入れ、湯を沸かして茶を飲むわけですから、あくまで日常です。その日常生活を美的に生きていこうとすること、できればいつもそういられるといいなぁということを目指しています。

 

 

【塾生】
『茶の本』の中に西洋と東洋の違いという話が出てきましたが、東洋人である私は12年間西洋の文化であるバレエをやってきた中で共感する部分もたくさんありました。両者の違いについて上田さんはどうお考えになりますか?

【上田さん】
茶の湯を始め、東洋の伝統文化というのは、年齢を重ねるほどに死ぬまで成長すると言われ、年を経るほど主役の座に近づいていきます。一方、バレエもそうですが、ヨーロッパの伝統文化というのは肉体的に激しい動きを必要とされるので、肉体の衰えと共に脇役に移って行かざるを得ないのではないでしょうか。そこが、東洋と西洋の文化の大きな違いではないかと思います。

 

 

【塾生】
私は合気道をやっていますが、相手との調和ということをよく言われます。師は宇宙という言葉を使いますが、自分の中に相手を取り込めるかどうかが奥義なのかなと感じています。茶の湯でも、お客と主人との間には自然と宇宙が出来上がるものなのでしょうか?


【上田さん】
もてなしている自分とお客さんとが同程度の美的空間を共有できていると、一瞬、自分がその客にもてなされているように感じることがあります。自分があえてそうさせているわけでは決してないのに、客の方に自分が入って、客が主人になっているという感覚です。今の合気道のお話にあった「敵が自分の空気に入ってくる」というのは、それと同じことをおっしゃっているのかなぁと感じました。

 

 

【塾生】
茶の湯が生まれた戦国時代から江戸時代を経て現代に至る中で、時代は大きなパラダイムシフトが起きていますが、15世紀に生まれた茶の心も変化してきたのでしょうか?


【上田さん】
茶の湯の精神そのものは変わらなくても、家元制度ができたことによる功罪はあると思います。当初は武将や大名家など一部の階級の人たちがやっていた茶の湯でしたが、経済が成長してくる江戸中期頃になると町衆の力が強くなり、組織化して家元制度ができました。組織である以上どうしても権威的にならざるをえない部分もあり、矛盾も生まれます。拡大し権威的になった後、どう展開していくかというのは私にも分かりません。組織論という意味では、家元制度も今後は変わって行かざるを得ないのかもしれませんね。

 

編集後記

日本の文化でありながら実は知らないことも多い茶の湯の世界について、その歴史的変遷の解説や豊富な映像資料によって、その奥深さを知り、新鮮な関心を抱くことができたと思う。塾生たちはこの3日後に江戸千家家元の川上宗雪さんの茶室を訪ねて、実際に茶の湯を体験した。桃山の時代から受け継がれてきた茶の湯の世界を、頭で学び、かつ体で感じることは、日本人としての心の豊かさを改めて深く見つめる貴重な体験となったことだろう。

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