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福沢文明塾 コア・プログラム講義録

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第8期 コア・プログラム
ベーシック・ナレッジ
『文明論之概略』に見る文明と経済

講師:小室 正紀
慶應義塾大学 経済学部 教授


ライター:永井 祐子
セッション開催日:2012年11月8日

福澤の残した文献からその教えを学ぶベーシック・リーディング。今回のセッションでは経済学部教授の小室さんを講師に迎え、『文明論之概略』を紐解きながら、文明と経済の関係について、福澤がどう捉えていたのかを考えてみる。

 

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経済は、文明を進めるための手段である


 福澤は、経済、そして経済を理解するための学問である経済学を、早い段階から非常に重視していた。1868年(慶應4年)には『西洋事情 外編』という経済学の翻訳書も出している。ただし、経済、すなわち豊かになることのみが目的なのではなく、なによりも経済は文明を進める手段であると位置付けていた点にまず注目したい。たとえば『文明論之概略』には次のような記述がある。
「文明の物たるや至大至重、人間万事皆この文明を目的とせざるものなし。制度と云い文学と云い、商売と云い工業と云い、戦争と云い政法と云うも、これを概して互に相比較するには何を目的として其利害得失を論ずるや。唯其よく文明を進るものを以て利と為し得と為し、其これを却歩せしむるものを以て害と為し失と為すのみ。」(『文明論之概略』第3章)
 商業、工業などの経済活動は、すべて文明を進めるか否かによって、利・得となるのか、あるいは害・失となるのかが決まる。すなわち、経済は文明を進める手段のひとつであるという理由で重要視されているのだ。
 では、なぜ経済は文明を進めるのか。福澤は経済についてしばしば「商売」という言葉を使っている。商売とは物の交換であるため、商売が発達すると人と人との交流が活発になる。それにより、他人の考えを知ったり、自分の考えを他人に伝えたり、あるいは他人の優れている点を見たりすることもできるようになる。このようにして人々が互いに議論を交わす状況が生まれる。『文明論之概略』では、その状況を「多事争論」と呼ぶが、これが生まれることによって、文明の進歩に繋がると考えたのである。

 

日本で経済が発達していない理由とは


 次に、西洋に比べて日本では経済の発達が遅れていたのはなぜかという点を考えてみる。これについて福澤は、西洋では経済を担っている人がそれぞれに主張をすることができ、それが社会の変化に結び付いているのだと指摘している。『文明論之概略』で言うところの「ローカルインテレスト(地域の利害)」や「クラスインテレスト(階級の利害)」の主張が集合してひとつの力になり、国政の変化を起こしていったというのだ。
 一方日本では、経済活動は政府や幕府や藩の管理の中に閉じ込められていた。その管理に対して障害となるものは禁じられたり除外されたりしてしまうために、人々は多少自分の商売や工業に不都合なことがあったとしても我慢して、お上が設定した枠の中で営業を続けざるを得ない。そうした状況からは変動の力が生じなかった。その結果、平家から源氏、足利幕府というように政府が変わっても、支配権の変遷が繰り返されているだけであって、経済を含めた社会体制が、ある一定の方向に変化しながら進歩していくということがほとんど起きていないというのだ。komuro_4.jpg
 福澤はこれを、『文明論之概略』にも『学問のすゝめ』にも出てくる有名な一節である「日本には政府ありてネーションなし」という言葉で表現している。「ネーション」とは国民がさまざまな議論を交わしながら国政を担うことにより形成されるものであり、支配する政権があるだけでは、それはネーションではなく政府にしかすぎない。この点が西洋と日本との違いであり、それが経済の発達に影響を及ぼしているというのである。
 そうした江戸時代の状況については、『文明論之概略』の第9章にかなり詳しく書かれている。徳川時代の体制では、権力が均等に分配されることなく、力の強い者が権力を独り占めしている「権力の偏重」の時代であった。人々は幾十にも分けられた堅固なマス目のような隔壁の中に閉ざされて生きていた。その結果、「数百年の久しき其習慣遂に人の性と為りて、所謂敢為の精神を失ひ尽すに至れり」とあるように、積極的に物事に挑戦していこう、自分の意見を外に発信しよう、あるいは人々と積極的に交流していこうという精神が萎えてしまった。すなわち、西洋のように人々が自分の権利を主張し新しい社会形成に参画していけなかったことが、日本の経済が発達しないひとつの原因になったと考えている。

 

費散と蓄積、活発敢為と勤倹勉強とが分断された

 

komuro_5.jpg 『文明論之概略』では、経済の発展において重要な点としてふたつの定則を挙げている。ひとつは第9章の第一則に書かれている「財を積て又財を散ずること」である。当時の経済の専門家が考えていたのは常に倹約と蓄財であった。つまり、「費散」と「蓄財」のうち、費散はよくないものであると考えられていた。それに対して福澤は、蓄財も重要だが費散もまた重要であると述べている。収支がマイナスではいけないが、費散と蓄財、双方の規模がどんどん大きくなっていくことが大事なのだ。
 江戸時代の士農工商という身分を経済の面から分けると、支配される側の農工商以下の人々が財を産む生財者であるのに対し、支配する側の士族は財を産まない非生財者である。生財者は倹約することだけを考え、納めてしまった税金は政府が使うものとして任せきりで、費散のことを考えない。一方の政府は、税金を取り上げるのみで生産の局面について考えない。本来、蓄積と費散、すなわち生産と消費はひとつの精神、ひとつの計画で行われるべきものであるのに、現実には政府、生産者がそれぞれの考えで行っていて、意思や意見の集約が行われていない。こんな状態では、経済に不都合を生じてしまうのは当たり前だというのである。
 ここでキーワードとなるのが「権力の偏重」である。人々の間に権力が分散されていないために、経済においても蓄財者と費散者とに分裂してしまった。費散を担う政府の方に権力が集中していて、生産者の方には意見をいう権利が与えられていない。そうした状態が続くことで、経済の慢性病ともいえる状況に陥ってしまったというのである。
 経済の発展に必要なものとして挙げられているもうひとつの定則が「理財の智」「理財の習慣」だ。これは経済にプラスとして作用するような智であり習慣のことであり、その要となるのは、「活発敢為の働き」と「節倹勉強の力」だ。高尚なものを目指して何かに挑戦していく精神と、一生懸命働き、倹約をする精神。その両方があって、初めて蓄積と費散が大きくなっていく。節倹のみでは自分の富を守っていくだけで、それ以上の富を獲得しようという精神は生まれない。また、勤倹勉強を伴わない敢為活発の精神だけででは、生産の大変さを分からないため、浪費乱用に陥ってしまう。この両方が備わっていないと発展する経済を担っていくことはできないのだ。しかし、実際の日本では、「権力の偏重」によりこの両者を担う者がふたつに分かれてしまっている。したがって、「此智力の両断したるものを調和して一と為し、実際の用に適せしむるは経済の急務なれども、数千百年の習慣を成したるものなれば、一朝一夕の運動を以て変革すべき事に非ず」とあるように、これをひとつにすることは経済の急務ではあるが難しいというのが、福澤の理解であった。

 

「権力の偏重」をいかにしてなくすか

 

 このように、経済を発展させるには、権力の偏重を取り除き、人々が経済についていろいろなことを発言できるようにすること、そしてその発言が集約されて、経済を進めるためのひとつの考え方を形成するような能力を社会が持っていることが重要だと、福澤は考えていた。
 すなわち、根幹は「権力の偏重」を除去することにあると言える。権力の偏重が除かれれば、人々は対等な立場になって議論ができる。「多事争論」は多様な考え方が交流して互いに切磋琢磨し、有形の学が発達することに繋がる。有形の学は物事を客観的な事実に基づいて考える学問であるから、これが発達することは文明が進歩することを意味する。また、「権力の偏重」がなくなると、蓄積と費散が同一心で考えられ、意見集約が行われ、人々は活発敢為の精神、節倹勉強の精神を併せ持つようになる。その結果、経済が発達し、「人間交際」が活発化し、文明の進歩に繋がる。
 こうした考え方に、「日本の独立」という当時の時事問題が加わると、文明の進歩によって独立を進めるためにも経済の発達が必要だという、文明と経済との関係を表す構図が出来上がるのである。

 

質疑応答

 


【塾生】
福澤の意図した「独立」という意味では、軍事的にアメリカに依存し、経済的に中国に依存している今の日本の状況は、独立していると言えるのでしょうか?

 

【小室さん】
『文明論之概略』に書かれている国の独立とは、自分たちの主権に基づく統治権を失わないことでした。そういう意味からすると、経済的に依存しているという状況があるからといって独立していないとは考えないでしょう。問題があるとすれば、日本には政府があってネーションがないという状況が、今も変わっていないのではないかということだと思います。つまり、我々が社会や政府を主体的に形成していこうという意図をどれだけ持っているかという面で弱いのではないでしょうか。

 

 

【塾生】
経済が発達して富が偏在すると、それはそれで権力の偏重にもつながるのではないでしょうか?

 

【小室さん】
この時期の福澤は、まだ富の偏在のことは考えていません。とにかくパイを大きくしなくてはいけないということです。今でいうと、まずはGDPを大きくするというようなところに関心があったのだと思います。パイが大きくなれば雇用機会が増えて、小作人も生き方の選択肢が生まれます。特に、商工業を大きくして新たな雇用を作るということを念頭に置いていたのだと思います。

 

 

【塾生】
「政府なくしてネーションなし」という日本においても、結果的に経済が発達してきたことを考えると、ネーションがあることは必要条件とは言えないのではないでしょうか?

 

【小室さん】
到達する目標があってそれに向かって勢いで成長できるときには、もしかするとネーションがなくてもかまわないのかもしれません。明治において近代国家を目指したとき、あるいはアメリカのようになりたいと高度成長を成し遂げたときなど、明確な目標があればそこに向かって走っていけたからです。現在の中国も似たような状況と言えるでしょう。むしろ、トップに立ってしまって行き詰まり、目標がなくてどこに行けばいいのか分からずにいる今の日本こそ、ネーションが必要な時期なのではないかと、私は思います。

 

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クロージングメッセージ


福澤が提起していた問題は、「近代とどう向き合うか」ということでした。近代というのは、実態ではなく理念です。その理念を肯定するにしても否定するにしても、どう向き合うのかは、日本だけでなく、韓国や中国、あるいはヨーロッパにおいても、現在もなお我々に課せられているとても大きな問題だと思います。福澤の魅力は、あの時代に日本という極東の島国にいながら、その近代というものに正面から向き合ったということです。彼の理念が未だに生命力を持っているのは、その点にあるのではないでしょうか。

 

 

塾生の振り返りより(コミュニティサイトより抜粋)


「権力の偏重、経済と文明の関係性、人間交際、有為の学問の発達など、話が核心に迫ってきたなと感じました。『文明論之概略』を読んでも、これらの概念を整理するのはなかなか難しかったので、関連図を示していただけたのはありがたかったです」(20代 男性 社会人)

 

「もっとも心に響いたのは、権力の偏重は智力の両断を招いてしまうため望ましくないということでした。関係する一人ひとりの智力を分断してしまっていないか、これからはそういったことを考えながら物事に取り組もうと思いました」(30代 女性 社会人)

 

 

編集後記


前半は、福澤の考えた文明と経済との関係について、時代的、社会的背景を交えた理論的な解説が行われた。それを受けて後半は、そうした理論を現代の日本社会の視点から見つめるディスカッションに発展していった。福澤の文明論を学ぶことは、現代の問題を考える上でも示唆するものが多いということを、改めて実感する時間となったことだろう。

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