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第7期コア・プログラム
ベーシック・リーディング
文明の作法 -智徳から読み解く-

講師:岩谷 十郎
福澤文明塾 プログラム・コーディネーター
慶應義塾大学 法学部 教授
ライター:永井祐子
セッション開催日:2012年6月9日

今回のベーシック・リーディングは、主に日本近代の法の歴史を専門とする岩谷さんを迎えて行われた。『文明論之概略』の中心テーマとなっている智徳論について、私たちが現代を生き抜いていくために、これをどう読み解いていけばよいのかを考える。

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私智、私徳から公智、公徳へ

 福沢の智徳論とは、彼の人間観に関わるものであり、非常に理論化されている。最晩年に至るまで数多くの論説において触れられているが、中でもこの『文明論之概略』は智徳についての体系的な議論を知ることができるという点で、彼の智徳論を知るためには最初にひもとくべき資料だといえる。
 ここでは、智徳の定義について、次のように書かれている。

「徳とは徳義と云うことにて、西洋の語にて「モラル」と云う。「モラル」とは心の行儀ということなり。一人の心の内に慊(ここちよ)くして屋漏(おくろう)に傀(はぢ)ざるものなり。智とは智恵と云うことにて、西洋の語にて「インテレクト」と云う。事物を考へ事物を解し事物を合点する働きなり。」(『文明論之概略』岩波文庫、1990年版p.105)

 これによると、徳とは世間的評価と距離を置き、一人の心の内にあるものであるのに対し、智は外物に接しその利害損失を論じるものであると切り分けている。そして、徳は我々の情動、エモーションを制御する働きをするものであり、智とは、理、すなわちことわり、道理に基づく精神作用であると定義している。
 また、徳が作用する範囲は一家の内にあるのであり、家族関係など密なる共同体の人間関係の中で、お互いを結び合う絆となっている。一方の智は、そういう狭い共同体的な範囲を超えて、一国の人を動かし全世界を一変させる普遍的な学識にもつながっていく精神作用とされる。
 こうした定義を前提として、福沢は智徳を4つの態様に分類している。徳を私徳と公徳に、智を私智と公智に分けて彼は考える。私徳とは「貞実・潔白・謙遜・律儀」、つまり道徳的な戒めのようなもので、心の内に属する受け身のものである。一方の公徳とは、「廉恥・公平・正中・勇強」である。私徳と公徳は同じ徳でありながら、一個人の中に働く道徳と、個人が集まってより広い人間関係を形成していく中で働くべき道徳、という点で異なる。
 智の方も同様な区分が可能で、私智は「物の理を究めて之に応じる働き」であり、自然法則のようにそれ自体として完結するものである。これに対し、「人事の軽重大小を分別し軽小を後にして重大を先にし其時節と場所を察するの働き」が公智である。法則が法則であるだけでは役立たないので、私智をより幅広い目的のために役立てていく、すなわち公智に押し広げていく必要がある、と福沢は考えた。私智、私徳の領域から、公智、公徳に広がっていくというのが、福沢の文明論の真骨頂ともいえるだろう。
 福沢はこのように智徳を分類したのみならず、それらが互いにどう関連するかということにも言及している。

「智恵と徳義とは恰も人の心を両断して各其一方を支配するものなれば、孰れを重しと為し孰れを軽しと為すの理なし。二者を兼備するに非ざれば之を十全の人類と云う可らず。」(『文明論之概略』岩波文庫、1990年版p.111)iwatani-2.JPG

 智と徳、どちらが大事というのではなく、智と徳、双方が相まって初めて十全の人格だという。智徳がバランスの取れた状態で増大していくのが文明の道程なのであり、人間性というものも、智と徳、双方のバランスがとれた形成の上に成立すると述べている。

情欲を徳で制御し智へと導く

 ここでもうひとつ参照したいのが、『学問のすすめ』の八編である。「我心をもって他人の身を制すべからず」というタイトルがついたこの部分では、自由について語られている。自由というと、私たちは非常に観念的な概念として考えがちだが、福沢は「他人の身を制すべからず」、つまり、身体性をもった概念として捉えているのが特徴的である。「一身独立」という語句にも「身」という語を用いているが、その「独立」も、権利の独立や人権的な平等性ということではなく、肉体的な存在性というものがその根底にある。
 『学問のすすめ』のこの部分では、「第一、人には各々身体あり」から始まり、「第二、人には各々智恵あり」「第三、人には各々情欲あり」と続き、この情欲についてはもっとも長い説明がなされている。

「情欲はもって心身の働きを起こし、この情欲を満足して一身の幸福を成すべし。たとえば人として美服美食を好まざる者なし。されどもこの美服美食は自ずから天地の間に生ずるものに非ず。これを得んとするには人の働きなかるべからず。故に人の働きは大抵皆情欲の催促を受けて起こるものなり。この情欲あらざれば働きあるべからず。この働きあらざれば安泰の幸福あるべからず。禅坊主などは働きもなく幸福もなきものと言うべし。」

 ここで強調したいのは、福沢の理論では、情欲を重要なものとして考えている点である。情欲とは、まさに我々の幸福、安楽さなどにつながっていくものだとされる。封建時代からの近代化が進む過程にあったこの時代において、階級的な社会関係の中で枠にはめられていた人間的な存在性を解放していくという、文明の一つの段階として、情欲を位置付けているのである。
 さらに、「第四、人には各々至誠の本心あり」、「第五、人には各々意思あり」と続く。至誠の本心の役割は、情欲が他者の領域を踏み越えないようにコントロールすることである。先ほども触れたように、私たちの情を制御するもの、それは徳である。したがって、情欲に対し、徳を以て道理=智恵へとつなげていくのであり、智恵と情欲という2つの精神作用の結果が、私たちの身体に挙動としてあらわれるのである。
 このように、福沢の人間理解というのは、身体の挙動から心身の内面にまで広がっており、その中での智恵と情欲の関係性が、『学問のすすめ』のこの部分に示されている。
 『文明論之概略』では、そうした智と徳の理論が、文明論という大きな枠組みの中で再定義されている。そこでは文明というものを、歴史や国家が成立させていくものではなく、個々の人間の挙動の中から描いている。当時この『文明論之概略』が注目されたのも、そうした一人ひとりの人間が歴史を動かす原動力となるとする歴史観が、非常に新しい視点として受け入れられたためであろう。

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情を律する徳の重要性

 ここまで、智と徳という二元論で考えてきたが、これはまた、理と情の対比として考えることもできる。およそ人間の行動は情=パトスと理=ロゴスの2つの働きによって支配されているという考え方だ。
 ここで、理とは大小・軽重・長短・多寡・損益・増減といった、計量性・有形性・実証性に関わる精神作用である。この理を基として、契約、規則、政府と人民の関係、市民社会(ソサエティー)という人間交際(じんかんこうさい)の関係性が形成される。
 その一方で、喜怒哀楽という情の動きは、理のような目で見ることができる実証的な世界とは異なり、無形のものであり、そうした無形の情愛は、家族、親子、夫婦という関係性を形成する。これは、場合によっては一身上の利害をまったく勘定の外に置く関係性である。
 この理と情を比べたとき、情が勝つと福沢は考えていた。人間は処罰されることが分かっていても罪を犯してしまう存在だから、情を理でコントロールすることはできないとする。すなわち、人間の持っている情としての存在を真正面から認めているのである。「人間はただ理によって世を渡るものに非ず・・・あたかも人情の舟に乗って浮世の浪を渡るともいう」とは、福沢の処世訓でもあったことを銘記しておきたい。
 そして、その情こそが、家族や夫婦という関係を作り出すと同時に、一村一群、さらに一国というつながりを内側から形成していく。したがって、この考え方は、一身独立して一家独立し、さらに一国が独立するという、福沢の時代の日本の独立の問題にもつながっていく。
 では、その情的存在としての人間を、どう律していくべきなのか。情を律する徳、道徳というものを福沢は非常に大事に考えていた。徳を前提にし、これに理、智の働きを加えて文明を進捗していくという図式である。
 ここでいう徳とは、儒教的な徳心、すなわち君臣、父子、長幼の序といった「古聖人の定めた徳教の法則」ではなく、自立のための徳心を指す。福沢は、文明的な世において情を制御する徳の内容を、まさに彼の「独立自尊」において示そうとしたのである。
 以上のように、儒教において渾然一体となっていた智と徳とを、自らの定義で切り分けて概念化し、相互の関連について新たに考える姿勢、それが福沢の智徳論の原点に認められるのである。

この日のセッションに先立ち、受講生には、「現代の日本社会で、智のみが肥大化している現象、徳のみが強調されている現象、智と徳がともに増大している現象とは何か?」という課題が出されていた。岩谷さんの講義を聴いた後、その課題についてグループごとに話し合い、発表する時間が設けられ、受講生からいくつかの意見が挙げられた。

 

<智のみが肥大化している現象>

・核兵器の発明、遺伝分野に対する人間の介入、偏差値社会、インターネットやSNSの流行
<徳のみが強調されている現象>
・震災後の過度の活動自粛、戦時教育において人が持っている以上の徳を押しつける行為
<智と徳がともに増大している現象>
・株式会社、NPO法人、企業のCSR活動、環境保護運動

岩谷さんのコメント

皆さんの意見を聞いて印象的だったのは、徳に関するとらえ方はさまざまであったのに対し、「智のみが肥大化している現象」については、多くの人に共通のイメージがあるように感じられたことです。福沢の時代には、まず「智の働き」ということ自体に人々の関心を向ける必要があったのに対し、現代はむしろ智の働きが肥大化し、それをなんとかしなくてはいけないという認識が増えつつある、その違いを表しているともいえるでしょう。

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今回のテーマは観念的なものであり、これをどのように理解し、思考を広げていくかは、一人ひとりさまざまな解釈があると思われる。人間の内面や行いを、智と徳の二元論から考察するという視点は、改めて自らを振り返り、今後の生き方を考えて行く上で、新たなヒントを与えてくれるのではないだろうか。

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    伊達美和子
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